連載日本史162 化政文化(4)

江戸時代後期には、学問・教育の普及と社会の変化に伴って、さまざまな政治・社会思想が生まれた。経世論では、重商主義の立場をとった海保青陵が「稽古談」で流通経済の仕組みを平易に説明し、本田利明は「西域物語」や「経世秘策」で開国による国営貿易の開始を主張した。一方、佐藤信淵は「経済要録」や「農政本論」で、貿易の必要性を説きながらも農政の重要性を主張した。また、八戸の医師であった安藤昌益は、万人直耕の自然世を理想とし、「自然真営道」を著して封建制度を厳しく批判している。

自然真営道(archive.orgより)

大坂の懐徳堂からは、富永仲基や山片幡桃(ばんとう)などの合理主義者が出た。蟠桃は著書「夢の代」で儒学・仏教・国学を批判し、合理的思考と科学的態度を重視して地動説を主張した。また、経世思想家の林子平は、ロシアの北方進出に注目して「三国通覧図説」「海国兵談」を著し、海岸防備を主張した。江戸後期には北方への関心が高まり、工藤平助は「赤蝦夷風説考」でロシアとの貿易や蝦夷地開拓の必要性を説き、近藤重蔵は蝦夷地の探索にあたって択捉島に「大日本恵土呂府(エトロフ)」の標柱を立てている。間宮林蔵は樺太(カラフト)を探検調査して、沿海州と樺太の間にある海峡(間宮海峡)を発見し、樺太が島であることを確認した。

北方領土探査要図(「世界の歴史まっぷ」より)

内外の開国圧力が次第に高まるにつれて、その反動としての攘夷論も激しさを増した。これが天皇を尊ぶ尊王論と結びつき、倒幕の原動力となる尊王攘夷論の形成へとつながっていく。尊王論の学者には水戸学の藤田東湖や会沢安、宝暦事件で追放を受けた竹内式部、明和事件で死罪となった山県大弐、「日本外史」を著して源平から徳川に至る武家の盛衰を記述した頼山陽らがいるが、とりわけ平田篤胤の復古神道は日本古来の純粋な古道を重んじるべきだと説き、幕末の志士たちに大きな影響を与えた。

平田篤胤(コトバンクより)

幕府にとって尊王論は厄介な存在だった。権威の源泉は天皇にあり、将軍は天皇から任命を受けた存在にすぎないという理屈は、それが天皇から不要とされたならばいつでも交換可能であり、徳川家の世襲である必然性もないということになるからだ。しかし全否定するわけにはいかない。実際、その通りなのだ。ただし実質的には、江戸時代270年を通じて天皇は統治には全く関わっておらず、徳川将軍が日本国の事実上のトップとして君臨してきたのだ。そうした既成事実の重みがあったからこそ、尊王論はあくまで「論」の範疇に収まっていた。それが激烈な倒幕のイデオロギーへと転化するのは外圧によって幕府の統治能力の弱体化がさらけ出されたことによってであり、その発火点となったのは1853年のペリー率いる米国艦隊の来航であった。

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