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連載中国史37 元(3)

元代の文化は、東西交流の活性化の影響を受けて国際色豊かなものになるとともに、宋代に続いて庶民文化の発展も見られた。1246年にはローマ教皇の使節としてプラノ・カルピニが三代皇帝グユク・ハン統治下のカラコルムを訪れ、1254年には仏王使節のルブルックがカラコルムでモンケ・ハン(憲宗)に十字軍への協力を要請している。1294年には教皇の命で大都に至ったモンテ・コルヴィノが教会堂を建立し、初代大都大司教となった。中国にカトリック布教の礎が築かれたわけである。1275年にはヴェネチア生まれの商人マルコ・ポーロが大都に到着。フビライに仕えた彼は、帰国後に「世界の記述(東方見聞録)」を著した。14世紀にはモロッコ生まれのムスリムの旅行者イブン・バットゥータが西アジア・中央アジア・インド・元を歴訪し、「三大陸周遊記」を残している。

タタールの衣装を纏うマルコ・ポーロ(Wikipediaより)

カトリックやネストリウス派キリスト教、イスラム教など、西方の宗教の伝来もあったが、宮廷で強い影響力を持ったのはチベット仏教(ラマ教)であった。特にフビライの時代に僧パスパが国師となって以来、チベット仏教は元王朝の手厚い庇護を受けるようになる。パスパはチベット文字をもとにしてパスパ文字を考案し、公用語としてのモンゴル語の普及にも貢献した。後年、過度の出費によって元朝衰退の一因となるチベット仏教だが、文化的には帝国に大きく寄与したのだ。

パスパ文字と漢字の音韻対照表(WIkipediaより)

科学の分野ではイスラム暦の影響を受けた郭守敬が精密な天体観測を行い、1年を365.2425日とする授時暦を作成した。これは西欧のグレゴリウス暦に先立つもので、当時最も優れた暦であり、日本の貞享暦にも影響を与えた。ここにも東西交流の影響が垣間見える。

暦の歴史(shanghai-cool.jugem.jpより)

文学の面では宋代の詞を更に発展させ、歌劇として演じる元曲が広まった。庶民的な小説も発達し、「西廂記」「漢宮秋」「琵琶記」などの恋愛物語が生まれた。美術では南宗画を中心とした山水画が流行した。工芸では西アジアのコバルト染料を白磁の絵付けに取り入れた染付(青白磁)が生まれ、貴重品として世界各地に輸出された。

概して元代の文化は、グローバルとローカルの両側面を持つダイナミックな文化であったと言える。宋代の文化のような洗練された深みは感じられないが、東西の多様な要素が混じり合う活力があったと思われる。モンゴル帝国によって開かれた草原の道は、さまざまな文化が出会うクロスロードでもあったのだ。

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