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連載中国史33 宋(3)

新法党と旧法党の激しい対立の余波も冷めやらぬ1100年、第八代皇帝の徽宗が即位した。「風流天子」と呼ばれた徽宗は院体画の名手として芸術の方面では著しい活躍を見せ、「桃鳩図」などの名作を残したが、政治的には多くの失策を犯した。最大の失敗は外交である。

徽宗作「桃鳩図」(Wikipediaより)

当時、満州ではツングーズ系の女真族が急速に台頭し、完顔阿骨打(ワンガンアグダ)が首領となって金と呼ばれる国が成立していた。遼(契丹)から燕雲十六州を奪回しようと考えた宋は金と海上の盟を結んで遼を挟撃した。しかし、宮廷で豪奢な生活を送る徽宗への反発から、華北では「水滸伝」のモデルとなった宋江の乱、江南では1120年に方臘の乱が勃発。国内の反乱鎮圧に手間取った宋軍は遼との戦いで金に主導権を奪われた。金は西夏とも手を結んで遼を滅ぼし、北方を完全に勢力圏に収めた。宋は領土問題で期待した成果が上げられなかった上に、金に対して想定以上の出費を強いられることとなった。

燕雲十六州(斜線部)(kintaku3.blog.fc2.comより)

金の存在が厄介になった宋は、今度は遼の残党と密約を結んで金を攻撃しようとしたが、それが露呈し、怒った金が国境を越えて首都の開封に攻め込んできた。1126年、靖康の変である。徽宗と息子の欽宗は金に拉致され、北方へと連れ去られ、北宋は滅亡した。領土を取り戻そうとして謀略に溺れ、結果的に本土を失ったわけだ。

12世紀の東アジア(「世界の歴史まっぷ」より)

皇帝一族は連れ去られたものの、靖康の変の際に都を離れていて難を逃れた高宗(欽宗の弟)が江南で即位。1127年に臨安(杭州)を都として南宋を建てた。南宋では、金への徹底抗戦を唱えた主戦派の岳飛と、和平派の秦檜が激しく対立。結局、和平派が主導権を握り、1142年に紹興の和議で金と宋の和約が成立した。以降百年以上にわたって、華北に金、江南に南宋が並び立つ時代が訪れたのである。

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