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連載日本史136 幕政の安定(2)

1680年、五代将軍綱吉が就任、先代の文治政治を継承し、学問の奨励や幕政の刷新を行った。加賀藩で活躍した儒学者の木下順庵や、朱子学の大家である林鳳岡(信篤)らを信任し、1690年には湯島聖堂を完成、翌年に信篤を大学頭に任命した。幕政と儒学(朱子学)の関係は一層緊密になり、各地で藩校が設立されるようになる。また、1684年には渋川晴海を天文方に起用、貞享暦を採用し、暦をより正確なものへと改めた。

徳川綱吉像(Wikipediaより)

仏教に帰依した綱吉は、護国寺や護持院を建立するとともに、1685年に最初の生類憐みの令を発布した。特に犬を溺愛した綱吉は、野犬を保護するための犬小屋を300棟近くも建て、犬の戸籍帳まで作らせるなど、常軌を逸した一面を見せた。平和な時代だったからこそ可能であった話だろう。この悪名高い法令は、その後も何度となく出され、特に将軍お膝元の江戸の町人たちは多大な迷惑を被った。綱吉には側用人(そばようにん)の柳沢吉保が補佐についており、老中と将軍をつなぐ地位を利用して大きな権力を握っていた。つまりブレーキ役を引き受ける人間がいなかったのだ。

生類憐みの令並びに捨て子・博奕の禁令(群馬県立文書館HPより)

しかしながら、一般に悪法の代名詞とされる生類憐みの令にも、そうとばかりは言えない面が存在する。条文の中には、「犬ばかりに限らず、全て生類人々慈悲の心を本と致し、憐み候儀肝要事」との文言があり、この法令の根本に生命尊重の精神があったことを物語っている。これに先立ち綱吉の下で改定された武家諸法度では、第一条が「文武弓馬の道、専ら相嗜むべき事」から「文武忠孝を励し、礼儀を正すべき事」へと改められ、武断政治から文治政治への価値観の転換が明文化されている。やや行き過ぎの面があったとはいえ、生類憐みの令も、その延長線上にあったと考えられるのだ。綱吉政権末期の1702年に起こった赤穂浪士の討ち入り事件が世間で驚きをもって迎えられたのは、彼らの仇討ちが既に消えつつあった旧来の武士的価値観に殉じるものであったからなのかもしれない。

江戸時代の人口と耕地面積の推移(land.toss-onnline.comより)

家綱から綱吉へと続く十七世紀後半は、経済が飛躍的な成長を遂げた時代でもあった。江戸時代初期には約千五百万だった人口は元禄時代には約三千万と倍増し、各地で新田開発が盛んになり、農業生産量が一気に拡大した。貨幣経済も急速に発達し、1695年には勘定吟味役の荻原重秀の進言によって元禄金銀の大改鋳が行われている。いわば高度経済成長時代であり、その中で学問重視・生命尊重の価値観も培われたのであろう。先代の家光時代末期に起こった寛永の大飢饉や、家綱時代の初期に起こった明暦の大火などの大災害も、幕府や藩の施政方針を民生重視へと向かわせる契機となったのかもしれない。「民は国の本なり」「百姓は国の宝」といった言葉が現れるのも、この時代以降のことである。

宝永地震の震度分布(Wikipediaより)

綱吉晩年の1707年、宝永の大地震と富士山の大噴火が起こる。震源は南海トラフ、現代の東日本大震災に匹敵する規模の巨大地震であり、太平洋・瀬戸内海沿岸を襲った津波によって、多くの家屋や干拓地が飲み込まれた。地震と津波による死者は二万人以上、地震による倒壊家屋は六万戸、津波による流失家屋は二万戸に達したという。ここに高度成長期の十七世紀は終わりを告げ、低成長エコロジー志向の十八世紀が訪れたのだ。




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