見出し画像

連載日本史149 田沼時代(1)

八代吉宗、九代家重を経て、十代将軍となった家治は、1767年に田沼意次(おきつぐ)を側用人に起用した。意次は1772年には老中に昇進、通算二十年近くにわたって政治の実権を握った。米将軍と呼ばれた吉宗が、農業中心の重農主義政策を推進したのに対し、意次は財源を年貢だけに頼らず、商業活動による富にも求めた。いわゆる重商主義政策である。

田沼意次(Wikipediaより)

意次は東西で別体系になっていた貨幣経済の一体化を試み、秤量貨幣であった銀を計数貨幣として南鐐二朱銀を新規発行した。また、株仲間を積極的に公認し、上納金である冥加・運上の増加を図った。鉄・銅・真鍮・人参などの各々に座を設置し、専売制度の拡張も試みている。新田開発では町人請負新田を奨励し、印旛沼・手賀沼の干拓を支援した。とにかく商業を活性化して民間の経済活動を拡大することで、それをバックアップする幕府の財政も潤うという、官と民の持ちつ持たれつの関係を目指したのだ。

田沼意次の政治(kagami-nihonshi.comより)

持ちつ持たれつの関係は、「おまえもワルよのぉ」の癒着関係に容易に転嫁する。許認可権を持つ役人と、私益追求に余念のない商人との間で、しばしば賄賂のやりとりが行われるようになった。「役人の子はにぎにぎを良く覚え」という川柳は、当時の風潮をよく表していると言える。

蝦夷地探査の軌跡(「世界の歴史まっぷ」より)

意次は貿易振興にも力を入れた。長崎貿易の制限を緩和し、銅や俵物を積極的に輸出して金銀の輸入を促進した。ロシアとの交易を求めて最上徳内を蝦夷地探索に派遣し、徳内は1786年に千島列島の得撫(ウルップ)島まで到達している。もしも意次が失脚しなければ、ロシアとの交易が開かれ、日本の近代史は全く違った道を辿っていたかもしれない。

浅間山大噴火を描いた「夜分大焼之図」(Wikipediaより)

吉宗の改革が初代家康の政治を範とした原点回帰の傾向が強かったのに対し、意次の政治は経済情勢の変化に合わせた柔軟性に富んでいた。しかし、前のめりの重商主義政策は、貧富の拡大と社会の腐敗を生んだ。社会保障などのセーフティネットを持たない格差拡大は社会基盤の脆弱化をもたらす。平時はともかく、災害が起これば、その被害は貧困層を直撃する。果たして1782年、東北地方を冷害が襲い、翌年には浅間山の大噴火が起こった。江戸時代最大の飢饉である天明の大飢饉の始まりであった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?