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連載日本史227 昭和恐慌(2)

田中内閣は欧米諸国との間では協調外交路線を継承し、ジュネーブでの海軍軍縮会議に参加したり、1928年のパリ不戦条約に調印したりしたが、対中国においては強硬姿勢に転じた。その背景には、孫文の死後、中国国民党の指導者となった蒋介石が、全土の統一を目指して張作霖ら北方軍閥の支配地域に進撃する北伐を開始したことがある。1927年、南京に国民政府を樹立した蒋介石の国民革命軍が北伐の勢いを増すと、軍部や立憲政友会、さらに中国で紡績工場を多数建設していた在華紡などから、日本の既得権益が侵害されることを恐れて、協調外交路線への非難が起こる。田中内閣は中国関係の外交官や軍人らを集めた東方会議を開き、中国における日本の権益を実力で守る方針を決定したのである。

山東出兵と張作霖爆殺事件(東京法令「日本史のアーカイブ」より)

1927年から28年にかけて、日本は三次にわたる山東出兵を行った。特に28年の第二次出兵では、日本軍は中国国民革命軍との間に武力衝突を起こし、一時は済南城を占領した(済南事件)。一方、遼東半島の租借地と満鉄沿線の守備にあたる関東軍は更なる大陸進出を企図し、奉天郊外で北方軍閥の張作霖を列車ごと爆殺した。関東軍の関与は明白であったが、軍部は責任を回避し事件の真相は闇に葬られた。「満州某重大事件」という当時の事件の呼称自体が、真相を隠そうととする姿勢を如実に物語っている。これらの事件は中国国民の反日感情を高め、国際的にも批判にさらされた。田中首相は事件の事後処理を巡って天皇の不信を買い、翌年、退陣に至った。

ワシントン条約とロンドン条約(kagami-nihonshi.comより)

続いて首相となったのは、立憲民政党総裁の浜口雄幸である。浜口内閣は幣原喜重郎を再び外相に起用して対中国外交の改善を図り、1930年には日中関税協定を結んで中国の関税自主権を認めた。また、対欧米外交では軍縮に取り組み、1930年にはロンドン海軍軍縮条約への調印を実現した。だが、これに対して野党の立憲政友会や軍部・右翼などが反発した。政府が海軍軍令部の反対を押し切って兵力量を決定する条約に調印したのは統帥権の干犯だというのである。

軍令・軍政の系統図(wedge.ismedia.jpより)

確かに大日本帝国憲法には天皇の陸海軍への統帥権が規定されているが、それは作戦や用兵に関する権限であり、予算や編成を行う編成権は同じく天皇に属するものの、統帥権とは別に内閣が輔弼する事項であったはずだ。ところが政友会はそれを意識的に混同し、倒閣のための道具に使った。自由党にルーツを持つ政友会は、かつては軍部の台頭を警戒し、相対的に軍拡路線を批判する立場をとっていた。それが政権の中枢に関わりながら世代交代を進めるうちに、少しずつ変質していったのだ。政友会の変質は、日本政治そのものの自浄能力の劣化を示す現象でもあった。

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