見出し画像

連載日本史261 高度経済成長(3)

高度経済成長の最も大きな副作用は公害であった。十分な汚染対策を施さないまま廃液や煤煙を工場から排出し続けた結果、各地で健康被害や環境破壊が続出したのだ。1955年には富山県神通川流域でのイタイイタイ病の発生が学会で報告された。三井金属鉱業の工場から排出されるカドミウムによる、長期にわたる健康被害が明らかになったのだ。翌年には熊本県水俣市で、チッソの工場廃液に含まれていた有機水銀による水俣病患者の発生が報告された。水銀で汚染された魚介類を口にした人々の間で、神経が冒される症状が頻発したのである。しかしチッソは当初、原因が自らの工場排水にあると認めずに創業を続けたため、被害を更に拡大させることになった。まさに人災である。

四大公害病(mainichi.jpより)

60年代には工業地帯での大気汚染が深刻化し、三重県四日市では石油化学コンビナートからの煤煙による喘息の患者が急増した。1965年には新潟県阿賀野川流域で、昭和電工の工場廃液に含まれる有機水銀による新潟水俣病の発生が報告された。熊本の水俣病の原因特定と対策が早期になされていれば、防ぐことのできたはずの被害であった。

四大公害訴訟の結果(www5.cao.go.jpより)

1967年になってようやく、公害対策基本法が制定された。翌年には大気汚染防止法と騒音規制法が制定され、その翌年には政府が初の「公害白書」を発表した。その間にもPCB中毒によるカネミ油症事件や、東京をはじめ都市部での自動車排気ガスによる光化学スモッグの被害などが続出。公害問題は全国的な広がりを見せ、水質汚濁防止法など公害関係の14法案が成立した1970年の国会は「公害国会」と呼ばれた。翌年には環境庁が設置され、70年代に入って相次いで確定した各地の公害訴訟の判決では、いずれも原告側が勝利し、問題を引き起こした企業はいずれもその責任を問われることとなった。

1970年の「公害国会」で成立した法律(www.dir.co.jpより)

一連の公害問題に共通する要素は、環境汚染や健康被害に対する認識の甘さと対応の遅さである。経済効率優先の風潮と責任回避の姿勢が、被害の拡大と長期化に拍車をかけた。法の網がかかり、環境への意識が高まり始めた1970年代になってようやく、多くの企業が本格的な公害対策に乗り出すようになった。当初は企業の生産コストを押し上げて経済成長を阻害すると思われていた環境対策だが、そうした技術を各企業が責任を持って開発した結果、低公害車をはじめとする日本の環境対策技術は、海外へも輸出可能な優れたものとなり、むしろ国際競争力を高めることになった。長期的な視野に立てば環境対策と経済成長は十分に両立可能だということを多くの企業が認識するに至るまでには、公害病で苦しんだ人々の長い闘いがあったのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?