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連載日本史198 日清戦争(2)

1894年7月、朝鮮に駐留していた日清両軍の間で軍事衝突が起こり、8月には日本が清に対して宣戦布告。近代日本最初の大戦争である日清戦争が始まった。戦争が始まると各政党は政府批判を中止し、戦争への全面協力の姿勢を見せた。議会は国家予算の2倍に上る約2億円の戦費支出を全て承認した。初期議会での軍艦建造費を巡る激しい議論を忘れたかのような変わり身の速さである。戦場はほとんど朝鮮であり、自ら呼びこんでしまった側面はあるにせよ、朝鮮の民衆にとっては迷惑な話であったことだろう。戦況は近代軍としての訓練・規律・兵器・装備を整えて総力戦に臨んだ日本が圧倒的に優勢であり、陸戦のみならず、黄海での海戦でも勝利を収めた日本軍が、中国本土の遼東半島や山東半島に攻め込んだ。

日清戦争要図(「日刊ゲンダイ」より)

1895年4月、日本全権の伊藤博文・陸奥宗光と、清全権の李鴻章との間で下関条約が結ばれ、講和が成立した。李鴻章は清において西洋技術の導入を進めた洋務運動の中心人物であったが、それだけに旧体制を維持したままの改革では政治体制ごと変革を成し遂げた日本には対抗できないと悟っていたのだろう。彼が清の全権であったことは、早期の講和が実現したという点で、日本にとっても幸いであった。

下関条約で得た領土(「山川 ビジュアル版日本史図録」より)

下関条約では、朝鮮の完全な独立、遼東半島・台湾・澎湖諸島の日本への割譲、賠償金2億両(約3億1000万円)、蘇州・杭州など4港の開港などが定められた。一方、中国東北部(満州)への日本の進出はロシアとの利害関係の衝突を意味していた。講和条約が成立すると、ロシアはフランス・ドイツを誘って遼東半島の返還を日本に要求した。いわゆる三国干渉である。日本はやむなく勧告を受け入れ、半島を清に返還した。ここに国民のロシアに対する反感が激化し、「臥薪嘗胆」が流行語となった。冷静に考えてみれば、実際に遼東半島が日本にとって必要な領土であったかどうかは大いに疑問だが、戦勝ムードに冷や水を浴びせられたことで感情的になった面もあるだろう。賠償金はほとんどが更なる軍備拡張費に充てられ、日本は軍事大国への道を踏み出していくのである。

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