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バルカン半島史㉑ ~クリミア戦争~

オスマン帝国の弱体化に便乗して、ロシアは従来からの南下政策を一層強く推し進めた。それは東方への勢力拡大を狙う英仏の利害と必然的に衝突するものであった。1853年、フランスのナポレオン3世がオスマン帝国に対してエルサレムの聖地管理権を認めさせると、ロシアのニコライ1世も正教徒の保護を口実として自国に有利な同盟の締結をオスマン帝国に求める。オスマン帝国が拒否すると、ニコライ1世はそれを口実に宣戦布告。帝国の保護下にあったバルカン半島北部のモルダヴィアとワラキアに攻め込んだ。ロシアの南下を阻もうとする英仏、さらにイタリアの統合独立に向けてフランスの歓心を買おうとするサルディーニア王国がオスマン帝国側で参戦した。ここに南下するロシアをオスマン帝国・英・仏・サルディーニアの連合軍が迎え撃つクリミア戦争が始まったのである。

最大の激戦となったのは、黒海北岸クリミア半島のセヴァストーポリ要塞の攻防である。要塞を拠点に戦う5万のロシア守備隊と6万弱に及ぶ連合軍との戦闘は多数の死傷者を出しながら容易に決着がつかず、戦闘は長期化した。戦場におけるコレラの流行が兵士たちの惨状に拍車をかける。英国のナイチンゲールが看護師として活躍し、近代看護学の基礎を打ち立てたのも、それに刺激されたスイスのアンリ・デュナンが国際赤十字を設立したのも、ロシア軍の兵士として従軍したトルストイが後に戦争を主題とした大作を書き上げるのも、この戦争の悲惨さゆえであったと言えよう。

1855年夏、セヴァストーポリ要塞が陥落し、翌年に開かれたパリ講和会議でオスマン帝国の領土保全・黒海の中立化・ドナウ川の航行の自由・モルタヴィアとワラキアの自治(後にルーマニアとして独立)が確認された。ロシアの南下は阻止され、オスマン帝国は辛うじて領土を保ったわけだが、今度は戦争で支援を仰いだ英仏からの干渉が強まった。一方、敗北によって近代化の遅れを悟ったロシアは、皇帝アレクサンドル2世の下での農奴解放令や軍制改革など、上からの近代化を進めることになる。

オスマン帝国もまたスルタン支配の下で、タンジマート(恩恵改革)と呼ばれた上からの近代化を推進しつつあった。1839年のギュルハネ勅令ではムスリム優位の原則が改められて帝国内全臣民に平等の原則が適用され、租税制度や裁判制度、兵役の期間などが明確化された。クリミア戦争後の1856年には改革勅令で非イスラム教徒の権利尊重が改めて宣言された。タンジマートはスルタン専制支配の枠組みを維持することを前提としたものであり、根本的な変革にはなり得なかったが、その過程で次世代を担う官僚や知識人が育ち、近代立憲主義の実現を目指す動きが芽生えてきたのである。

一方、多くの民族・宗教が混在するバルカン半島では、相互の対立が激しさを増していた。近代の国民国家思想は良くも悪くも民族意識を高め、そこに再び南下を狙うロシアの意図が介在して一触即発の状況になっていたのだ。1875年、バルカン半島西部のボスニア・ヘルツェゴヴィナでスラブ系キリスト教徒たちがムスリムの地主に対して反乱を起こす。半島東部のブルガリアでも同様の反乱が起こり、スラブ系のセルビア・モンテネグロはキリスト教徒支援の声を上げる。これを好機とみたロシアは、パン・スラブ主義を掲げてバルカン半島のスラブ系民族の独立支援を表明。1877年、ロシアのアレクサンドル2世はスラブ系正教徒の保護を口実に、オスマン帝国との再びの開戦に踏み切ったのである。

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