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連載日本史200 条約改正

欧米諸国と結んだ不平等条約の改正は明治政府の最大の外交課題であった。特に領事裁判権の認可(治外法権)と関税自主権の欠如(協定関税制)の二点の改正が最重点目標として掲げられた。1870年代には既に岩倉使節団が予備交渉に臨もうとしたが失敗。その後、外務卿の寺島宗則が関税自主権の回復を目指して日米関税改定訳書の調印にまでこぎつけたが、英・独の同意が得られず無効となった。

鹿鳴館(Wikipediaより)

1880年代に外務卿(のち外務大臣)となった井上馨は極端な欧化政策をとり、外国人判事の任用や欧米同様の諸法典の整備を掲げて領事裁判権の撤廃と関税自主権の一部回復を図った。1883年に日比谷に建てられた鹿鳴館では諸国の外務官を招いて頻繁に舞踏会が開かれ、露骨な欧化主義の象徴となった。1886年、イギリス貨物船ノルマントン号が紀伊半島沖で難破し、英国人船長や乗組員は全員脱出したものの、日本人乗客25名は全員溺死するという事件が起こった。船長は裁判で無罪となったことで、領事裁判権の撤廃を求める世論が沸騰した。一方で、井上の欧化政策に対する反発や、条約改正の条件に掲げられた外国人判事の任用・欧米流の法典整備などが国家主権の侵害だという批判もあって、交渉は一時中止となり、井上は外相を辞任した。

条約改正への過程(山川「詳説日本史」より)

次の外相となった大隈重信は、国別の交渉へと戦略を切り替え、米・独・露それぞれとの改正条約の調印に至った。しかし条約外交渉で大審院への外国人判事の任用を認めていたことがイギリスの新聞で報じられると強い反対論が起こり、大隈が反対派の爆弾テロで負傷するという事件もあって再び交渉は中止され、黒田内閣は総辞職した。

ニコライ2世(Wikipediaより)

1890年代に入ると青木周蔵外相が、条約改正の最大の難関国であった英国との交渉を開始した。ロシアの東アジア進出を警戒したイギリスは、日本に対する態度を軟化させつつあったが、1891年、来日中のロシア皇太子ニコライ二世が、滋賀県大津で警備の巡査に襲われて負傷するという事件が起こり、青木が引責辞任したことで交渉は中断を余儀なくされた。この事件では日露関係の悪化を恐れた政府が大逆罪による犯人の死刑を要求したが、大審院の児島惟謙院長は司法の独立を守って謀殺未遂での無期懲役の判決を下した。その後、榎本武揚外相が交渉を引き継ぐが進展せず、結局、領事裁判権の撤廃と関税自主権の一部回復が実現したのは日清戦争直前の1994年、陸奥宗光外相になってからだった。岩倉使節団の訪欧から20年以上が経っていたことになる。

ビゴーの風刺画(meigetu.netより)

こうして見ていくと、条約改正を巡る日本政府の努力は涙ぐましいほどなのだが、一方で江華島事件を機に結ばれた日朝修好条規や、日清戦争後に結ばれた日清通商航海条約などにみられるように、近隣アジア諸国に対して日本は、相手の弱みにつけこんで不平等条約を強いていたことも事実だ。明治時代に活躍した風刺画家のビゴーは、鹿鳴館に集う日本の政府高官たちの姿が鏡の中で猿の顔に映っている絵を描き、当時の日本政府の姿勢を痛烈に批判している。それは単なる猿真似ではなく、力関係において上位の者から受けた理不尽な仕打ちをそのまま下位の者に転化する歪んだ姿をも映し出しているように見える。

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