2016.9.22の証その③
東京の教会に着いた。
インターホンを鳴らすと牧師婦人が出た。名前を言うと1年前に2回しか来たことのない自分を覚えていてくれました。牧師は不在でした。帰ってくるまで会堂で待たせてもらえることになりました。しばらく待っていると、牧師が帰ってきました。
牧師夫婦が話しを聞いてくれました。私は今の自分の状況を正直に話しました。帰るあてがなくさまよっていることなど。そして神様を信じたいと伝えました。
牧師は少し考えてから「よし、やってみよう。」と言ってくれました。私は、とにかくその日から教会で寝泊まりさせてもらえることになりました。
毎日教会のスケジュールに参加し、自分にできる奉仕はやらせてもいました。
だけど、順調にいったわけではありませんでした。神様を受け入れたものの全ての状況までもよくなるわけではありません。
いつまでも教会にいるわけにはいかないという焦り、なかなか見つからない仕事、祈っても祈っても神様は、なにをしてくれるのかわかりませんでした。
そんな時、台湾の牧師に教えてもらった聖書の御言葉があります。
「だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。」
マルコによる福音書11章24節
でもその後、本当に家も仕事も与えられました。ここに書いていない色々なこともありました。だけど、今私は、神学校を卒業して、結婚もし、牧師の働きをさせていただいています。
神様に本当に感謝しています。
「身のすくむような恐ろしい年月を忘れようにも忘れられません。私のたましいは恥の中に沈んだままです。
しかし、ただ1つの望みが残っています。神様のあわれみは決してすたれない、ということです。
私たちが全滅しなかったのは、神様のあわれみのおかげです。」
哀歌3章20~22節(リビングバイブル)
イエス様の十字架は私たちの罪の身代わりであることを知りました。天の父なる神様は御子イエス・キリストを私たちの罪の身代わりとなって十字架にかかることをゆるされました。そのイエス様の十字架の死によって私は、罪から解放され、自由となりました。
神様はいつも私たちが気がつかないでいるときも、私たちを愛してくれています。こんな長々と書いたブログにはわけがあります。
なにかあったときの神様ではない。今もいつも働かれている神様。私たちの想像を超えすぎて、私たちは目に見えるものを頼りとし、慰めとするかもしれない。
だけど神様は、あなたを愛している。神様は愛です。
世界に、イエス様の福音が届きますように。
あなたが神様を必要としているかではなく、神様があなたを愛している。
自分を大切にし、日々の大変な毎日に力が、そして平安がありますように。
2016.9.22
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