みずのさんのノオト:文化と記録

昔は、文字を読んだり書いたりするのは、一部の特権階級、貴族的な人たちに限られていたので、その頃の記録も、その層が中心のものになる。
平安絵巻と言われたりするあの頃なんて、まさにそんな感じで、一部の記録はあるものに、日常的に庶民が何してて、どういうものを食っていたのか、何を思っていたのかなんて話は残らない。

これが江戸時代の後半にもなると、町民文化が花開き、それらの記録も多く残されるようになった。
今知ることの出来る江戸風俗が、どれほど当時の状況と同じなのか確認する手立てはないが、古典落語と称されるカテゴリー1つにしても、それなりの情報量があり、また、各地で守られてきたしきたり、習わしが現代まで受け継がれていることもあるので、当たらずとも遠からずといったところだろうか。

そして、現代。
むしろ、どれが正しい情報なのかと悩むレベルに情報に溢れている。
会ったこともないような外国のおねーちゃんが、昨日、何を食べたのかを地球の裏でも知ることが出来るレベルで情報に溢れている。
これらの記録が、1,000年後、2,000年後、どういう形で受け継がれているか、非常に興味深いが、少なくとも我々が安易にイメージするような「これが平安時代」というイメージを固めることは難しいだろう。
多種多様な情報の海で、未来人は頭を抱えるか、とりあえず「何かの宗教的行事」として片付けるに違いない。

町民文化、今の庶民生活ですね。
安い缶チューハイを煽って生きている人もあれば、何か知らない高級酒を惜しげもなく頂いている人もあったりして、食生活1つにしても幅がありますが、そんな幅があろうとも、等しく情報が発信できるようになったのは面白い時代だと言えましょう。
もちろん、そういう情報をあえて発信するかどうかはともかくですが、心配するには及ばないレベルで、映え映え言いながら、どうでも良いような食べ物写真を必死に記録してくれる人はいくらでも出てきます。

そう考えると、不思議なのは、例えば食生活です。
『日本料理』という分野の料理がありますが、定義がはっきりしていない上に、例えば、それが懐石料理的なものを思い浮かべたとしても、日本人の大半が、普段口にしていないものが『日本料理』と呼ばれているのは、ある意味、滑稽です。

日本人が普段口にしているもの。
ご飯と味噌汁、ですか?
いや、カレーにラーメン、丼もの、うどんそばの類やら、そこらの飲食店を眺めるだけでも、その多彩な食文化が見えてきます。
このような食事は『日本食』ではなく『国民食』と称されたりしますが、この国民食によって人は育ち、活力を得て勉学だの仕事だのに励んでいるわけです。

そこに「私が日本の文化の代表です」みたいな顔をして登場する『日本料理』って何様だろうね、って思うわけですよ。
文化としての一面は認めるけど、もはや、それは料理じゃなくて様式美じゃないかなぁ、と思うわけです。
もちろん、包丁1つにしても、その使い方は、結果が様式美として通用するレベルで幅広いものではありますが、じゃあ、普段食べ慣れないような料理を「これが日本食でございます」と出されて、ろくに味が判定出来る人があるでしょうか?
一部の食通と呼ばれる滑稽な連中は、そういう判定能力がスキルでありステータスであるかのように信じていますが、そんな非日常的なローカルフードの良し悪しを判断して格式ぶっているのと、マイナーなエロゲーをやり込んだ人が熱く語っているのと、何が違うのか、といったところ。
高級感とかいうレッテルが好きな人たちは、そんなローカルルールに固執しがちですが、そういう依り代を抱えることは、自分が高級であると誇示するための手段なので否定はしないものの、客観的に見れば滑稽ですわな。
まぁ、経済的な貢献を考えれば、そりゃ、一口ウン万円の料理は、それなりに高額ですが、庶民の頭数を考慮すれば、500円の牛丼の方がよっぽど経済に貢献する話。

いや、何の話か、というところですが、要は、そういう情報を発信し、残せるのが一部階級だけの特権ではなくなった時代に、こういう概念的な『日本料理』がそのまま残っているのは滑稽だなと思うところです。
文化として否定はしませんが、その文化とやらは、一握りの人間だけが後世に伝えられるものではなくなりましたので、何かこう、きちんと『実』のあるものに変化して欲しいと思います。

いや、案外、本物の人たちの一部は、そういう方向にシフトしていますね。
料理研究家と呼ばれる人たちの中には、格式張ったものではなく、その心持ちを上手に日常生活に展開するような活動をされています。
例えば、「一汁一菜」の土井善晴さん、実際に言うとは思えませんが、「こんなのほんだし使えばエエんですよ」みたいなところがあります。
手間をかけるだけが料理じゃないよ、は日本の職場にも通じるものがあります。
「給料は苦労した対価」なので、エクセルでマクロを組んで楽して終わらせるなんてズルい、とさえ言い出す前世紀的な発想の人は、案外珍しくありません。
昔ながらの方法を捨てない人の中には、いろいろ試した結果、この方法が一番だった、という人は皆無で、単に、手順を覚えただけの話。
例えば「この職場で一番、仕事に詳しい人は誰ですか?」とヒアリングに行くと、なぜか、パートのおばちゃんが名指しされ、「こういう時は、ここにこれを入力して、ここを押す」と事細かに説明してくれたりしますが、どうしてやってるのか、と問うても「さぁ?」となるばかり。
日本の『仕事』とは、その行為の意味ではなく、操作方法だったりする訳ですが、誰もこの『権威』に逆らえません。

いつの時代でも、先駆者と呼ばれる人を後追いして、格好だけ真似してなり切っているヤツが一番面倒くさくて滑稽なのは、時代が変わっても不変なのかも知れません。



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