みずのさんのノオト:基準なき基準に生きる
学術の成績やスポーツの順位。
それぞれの科目や種目によってルール化され、その基準が明らかな中で競うこと。
人生において、極めて普通に遭遇する序列決めだろう。
明確な基準があり、それを皆が認識しているから成り立っている枠組みと言える。
一方で、明らかな序列のようなものが存在し、かつ、それが一般的にまかり通っているが、その実、明確な基準が存在しないものがある。
例えば、かわいさ、きれいさ、という評価だ。
様々な平等が叫ばれる時代に合わないかも知れないが、残念ながら、かわいさやきれいさは、主に女性に求められる。
いや、求めている面もあるし、実際に、それを望んでいる面もある。
そんなことはない、出来れば、そういう外見上の評価は止めて欲しいと思っている女性もあろうが、そういう女性に対して「僻みだ」などというのも女性に多いので、ある程度、仕方がないものとして話を進める。
(なので、不快だと思ったら、ここで読むのを止めて頂きたい。)
かわいさ、きれいさ、は基準がないと言いつつ、数値のような客観的な指標で示されないだけで、人の中に、それぞれ漠然とした基準は存在する。
しかし、それらは相対的であり、また、正解がないので、その実、個人の主観がまかり通る。
なにせ「これが『かわいい』ということです」と説得できれば、それは正解になるのだ。
だから、幼い女の子のうちに「かわいいとはこういうことだ」を教えられるか、もしくは、自分で気付くことで、それを身に着けることで、自信と自己肯定感を持った子となり、女子の序列的なものの上位に立つ。
一方で、同じ女の子であっても、自信がないか興味がないか、どういう理由であれど、「そういう価値判断」に興味がなくても、女性である以上、そこで形作られた序列に、否応なしに巻き込まれるのは悲劇と言えよう。
そして、そういう序列が作られる頃には、自画自賛による『ワタシかわいい』だけで上位に君臨することは出来ず、むしろ、他人を納得させるだけの『かわいい』を持っているので、結果的に、やんわりと序列が出来上がってしまうのだ。
しかし、残念なことに、その序列は根拠のない基準に基づいたものだ。
私が信じている『かわいい』は絶対的な基準であり、かつ、それを私が持っている、と思っている人ほど、その基準を盲信する。
いや、盲信せざるを得ない。
これは、本人のアイデンティーにも関わることなので、信じているそれが無価値だと知らされたとて、容易に受け止めることは出来ないだろう。
結果、かわいいに固執し、本来認めるべき他人が求めない方向に進んだところで、意に介しない。
もちろん、本人の意思で勝手にやっていることなら良いが、例えば、『私よりかわいくない子』が、いわゆるイケメン的な異性に『選ばれ』たりすれば、「私の方がかわいいのになぜ?どうして?」となってしまう。
これじゃダメだ、ますます、「自分を磨かないと」と思い、見当違いの方向に磨きをかけようとする。
その結果、これだけお金をかけているんだからきれいなはず、これだけ意識しているんだからかわいいはず、と言うまでになる人もあるが、そもそも、正解のない曖昧で相対的なものなので、お金や努力している時間という、何らかの数値基準で表そうとしても無理があるし、もはや、そうでもしないと説得力がないという焦りでもあろう。
何にせよ、そのかわいい、きれいは、その人の中で絶対の基準なのだ。
幼い頃から明確な基準でないものを基準として認識させられ、押し付けられている女性の世界、正直、生きづらそうだと勝手に思っている。
もちろん、好みだからと勝手に好意を寄せられ、また、好みじゃないからと邪険にされ、その中身で何も評価しない男性にも問題があるが、ここは生物としての本能に関わる部分なので完全に否定するのは難しい、という説明は、なかなか異性には通用しないのが残念だが、それにしても、という男も多すぎるのも問題か。
生物的な本能なのか分からないが、男性にとって、ある年齢帯の女性は魅力的に見える。
結果的に、ある程度の年齢まで『若さ』でどうにかなる、というか、それを許すおっさんが多いので、その基準なき基準が絶対的なものでないことに気付く機会を失うし、あえて、チヤホヤされている現状を捨てる必要もないと思えば、それに甘んじていれば良いので、さらに気付く機会を失う。
最近、大学などで女性枠が増えているが、あれこそ、女性をバカにしていると女性が怒るべき案件だが、まぁ、得してるんだし、というところだろうか。
そして、いわゆる「三十路」前だろう。
『新しい若さ』が入ってくることで、いろいろと気付く機会が出てくる頃は。
ここで気付くか、もしくは今の栄光に固執するか、その後の生き様を大きく変えるポイントとなるが、個人的には、人間としての魅力が出てくるのがこの頃かなぁ、という気がしている。
逆に、才能があったり、努力して身につけたスキルがあろうと、『若い女性』というだけで色眼鏡で見られ、その中身や実績で評価されないことに不満を持つ女性も多いのではなかろうか?
何にせよ、今の社会は、長い間かけて形作られた男性社会なので、ここ数十年ですべての価値観をひっくり返すことは難しい。
男性社会が繁茂している理由はいくつもある。
腕力や暴力で解決してきた、という一面は全く否定しない。
それよりも大きなポイントとして、オスは部品として安定している、という点がある。
生理休暇など不要な身体なので、同じ体調で連続勤務が可能な部品として便利に使えるからこそ、それを前提とした組織となり、それを前提とした社会が形成される。
なので、そういうわけにはいかない女性が、あえて男性社会に男のマネをして割り込もうとしている男女平等は、かえって「やっぱり女は」を生んでしまう原因になる。
それよりも、性差は性差としてキッチリあることを認識し、それぞれの得意分野を生かし、それぞれの苦手をカバーした上で共生すべき存在だと思うし、夫婦とは本来、そういうものだと思っているが、どうも、社会はそちらを望んでいないようだ。
基準なき基準に支配される人生を強要されるので、個人を発揮しづらい。
自分の好きなことでも、あえて社会で『○○女子』という呼称が浸透するまで、こっそりと楽しまなければならない風潮がある。
今でこそ、男女問わず、安居酒屋に立ち寄ったりしているが、あれも『おやじギャル』という言い訳を用意したから浸透した概念ではないか?
自分の好きなことを好きだと言えず、「推し活です」と添えなければならないとか、誰に対する言い訳なのか?
「女の子なのに」「女だてらに」という理不尽な理由で、自由を奪われる不自由さは、1つは「殿方に選ばれる」という価値観があり、今でも絶滅していないが、むしろ、同性に対する言い訳の方が多いのかも知れない。
基準なき基準による序列山は、別の基準による序列山が出来れば、あとは、それぞれの序列山の高さ比べになる。
自分が登っている山よりも、高い山が現れたところで、それぞれの方向性が違うのだから別に構わないと思うが、何か気に入らない。
「アニメ趣味とか根暗なオタクじゃないの?」とやっかみの1つも言いたくなるが、ここで「いや、これ、推し活というブームなので」という多数派を匂わせる言い訳を添えれば、基準なき基準を支援する大きな材料になる。
ガラクタを集めて悦に入っているオッサンの趣味に比べ、同じ物集めであっても、女性の場合宝石のような価値あるものが対象になる、というが、これは金額という序列が明らかであるからだろう。
このガラクタが気に入った、とか一人で喜んでいる間抜けなオッサンの嗜好など理解できる訳がなく、単なるゴミとして捨てられる。
基準なき序列山を誇示するのを止めれば、と言うのは簡単だが、それは難しい。
例えば、化粧という行為。
別にそんなことをしなくても生きられるのに、当たり前のように塗っている。
「じゃあ、一斉に止めようか」と言ったところで、かわいい・きれいの序列山が心に深く刻まれている人々の中から、守らない人がいたら嫌じゃん、という心配は消しきれない。
「あなたのためにきれいにしてるの」と思っているワタシ、が主役である以上、化粧品会社が倒産することはないだろう。
何だろう。
女性の中にも、頑張って身につけたスキルを活かして活躍したいと思う人もあれば、意中の殿方の奥方となり専業主婦として支えたいという人もあろうに、また、可愛いを最大限の武器として活躍する女性もあれば、その武器をルッキズムだと否定する女性もある。
どうも、両方の序列山で罵り合いをしているようにしか見えず、この令和に叫ばれている『男女平等』は、女性の特性を理解した、女性を分断させるためのキャンペーンにしか見えなくなってくる。
もしくは、その平等を叫ぶことで利する側の序列山の女性が仕掛けたものか。
基準があるようで、その実、それは曖昧なもの。
でも、それが根深く定着していれば、もはや、絶対的な価値として扱われ、それが故に、その曖昧さとの矛盾も発生してしまう厄介なもの。
かわいい、きれいは、女性の象徴的なものと言えようが、その実、女性を呪縛する生きづらさの元凶とも言えようか。
『かわいいは正義』は言い得て妙だが、あくまでも、その時点での正義であって、正解や真理ではないことに、いつ、気付くのか。
三つ子の魂百までという人間において、それは、ほぼ無理ゲーかも知れない。
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