キンプリ

『KING OF PRISM -Shiny Seven Stars-』11話で完全敗北した

『KING OF PRISM -Shiny Seven Stars-』11話「一条シン SIN」が放送された。
見た方は分かるだろう。もはや言葉など必要がないことが。
どれだけ言葉を重ねてもこの恐ろしさ、この禍々しさ、そしてこの美しさを伝える事はできない。それでもと言語化を試みようとすればするほど「この映像を言語にしてしまうのは野暮だ」という自分自身の心が告げてくる。
四章が公開された直後に「ヤバイ」とだけ語っていたのはそういう理由からだ。どれだけ言葉を尽くしてもこの映像を初めて見た時の衝撃を一片も表現できないのだ。
視聴してから今まで思考の隅にはこの映像が常に存在していた。この事を考える度に「これを言語化しなければならないのか」とまるで夏休みの宿題を一日で仕上げる事を命令された時のような気持ちになった。取っ掛かりのなさに「どうしたものか」と考えた回数は数え切れない。
三話、四話、五話と物語が進んでも出てきた結論は「無理だし、そもそも野暮では?」という最初から分かりきった結論だけであった。そして今日11話を改めて見ても自分程度の人間では一欠片も言語化出来やしない。「時間が経てば言語に出来るのでは?」と考えた希望は真正面から砕かれてしまった。

したがって11話についてはもう「見てください」とだけしか言いようがないので、可及的速やかに見てほしい。
それと見終わった直後の私の感想は以下の通りなのでこちらも読んでいきただきたい。

以下は蛇足なのだが一応書いたもの。見た人向けなのでネタバレ満載である。




一条シンとシャインの対比

11話を見た方には分かるように今回プリズムショーを披露したのは、シンの身に宿ったシャインである。
人々にプリズムの煌めきを広める使命を持ちながら、人間に早々に見切りをつけて「自分がステージに立つ事が一番効率よくプリズムの煌めきを広められる」と考え、結果として世界からプリズムの煌めきを奪って滅ぼしかけた悪魔として描かれているシャインであるが、10話でも見られたように彼は他者の気持ちを顧みないし共感もしない独り善がりな男で、その「他者」を軽視した部分を利用されてりんねに封印されてしまった。「他者への強い思いは自分を犠牲にするような行動を生む」という事を理解できなかったが故の敗北であった。

今回シンの身体に宿る形で復活を遂げたシャインであったが、そのプリズムショーは依然として変わらない「独り善がり」なものだった。
他者を慈しむ心も「皆に笑顔になってほしい」という想いも、仲間のために頑張るという熱意も無いシャインのプリズムショーは「凄い」とは言えるものの、多くの人の心に傷を残した。
ジョージの言葉を借りれば「やりすぎ」、聖さんの言葉を借りれば「オーバードーズ」。「自分さえいればいい」「自分こそが皆を笑顔に出来る」というシャインの独善さ加減を考えれば当然のことであるが、そんなシャインの在り方と対極に位置するのが現在のシャインの宿主となっている一条シンである。

一条シンはいつも「皆を笑顔にする」ということを信念としてプリズムショーに挑んできた。
オーバー・ザ・レインボーが目の前から姿を消した事に皆が悲しんでいる。「その悲しみを少しでも癒やしてあげたい。笑顔にしてあげたい」という思いからステージに立った。
自分にステージを譲ってくれた太刀花ユキノジョウや、プリズムジャンプが飛べなくなった自分に付き合ってくれた仲間達の分も皆を笑顔にするためにプリズムキングカップにも出場した。
シンのプリズムショーはシャインのプリズムショーとは真逆だ。
いつだって見てくれる皆の笑顔のために。
そんなシンだから仲間達も「プリズムの煌めき」を再び信じる事が出来たのだ。

シンとシャイン。
同じ身体に宿った人格にも関わらず全く相容れない思想を持つ二人の戦いは「自分との戦い」と言えるだろう。少々ネタバレになるが、今シリーズではシンとシャインによって描かれる「自分との戦い」が本当の意味での決着を見ることはないのだが、次シリーズが制作されるのであればおそらくそこが中核に据えられるのではないだろうか。

シャインのプリズムショー

さて。初めて見た時も度肝を抜かれたシャインのプリズムショーであるが、京極尚彦のファンとしても今回のプリズムショーは少々異質だと言わざるを得ない。
なぜなら曲調に合わせて尺を長めに取っているにも関わらず、カメラはシャインから離れないからだ。「スタァの背中越しに観客席を写す」など「スタァが観客にパフォーマンスを行っている」という前提のもとで全てのプリズムショーが演出されている『KING OF PRISM』において、これは異質なことだ。今シリーズでは大和アレクサンダーですら「観客を巻き込んだエンターテイメント」にしているのにも関わらず、シャインのプリズムショーにおいてカメラはシャインだけを写し続ける。
しかしこれは「自分だけを見ていればそれでいい」と考えるシャインのプリズムショーであることを考えると事情が変わってくる。
前述したようにシャインは絶対的才能を持ちながら独り善がりな考えの持ち主で、誰かを顧みることはない。「観客は自分の絶対的な愛を受け止めていればいい」と押し付けてくるシャインなので、そのプリズムショーを演出する際に「観客の視線を釘付けにしている」ということを念頭に置いてカメラワークやアングルを決定するのはあまりにも正しい。
彼自身の歌でも描かれているように「自分だけが愛されればそれでいい」ので、観客は自分だけを見ていればそれでいいのである。

そこでしっかりと「シャインに釘付けにされている」からこその「プリズムアクセス(おそらく上位世界であるプリズムワールドとの再接続を意味するのだろう)」と「完全同時プリズムジャンプ」の恐ろしさである。
複数のシャインに分身して行われるプリズムジャンプは一つ一つの尺こそ短いものの、それら全てが『オーロラドリーム』の主人公達及び男子プリズムスタァ達のプリズムジャンプをシャイン流にアレンジしたもの。それを間髪入れずに次々と展開されるのだからたまったものではない。
無呼吸連打である。牽制のための一発なんてものは一つもないくて本気で仕留める気の攻撃が次々と飛んでくる。躱したところに次の一発が待っていて、直撃したら死ぬ事確定だ。
そしてトドメに待っているのが「オーロラライジングミラージュ」。そこに存在するようでいて、影も形も存在しない虚像を持って締めくくられるシャインのプリズムショーは凄さは認めるものの怖い。

この「シャインに釘付けにされる長尺」と「無呼吸連打の同時プリズムジャンプ」の組み合わせがシャインのプリズムショーを「瞬きも呼吸も忘れてしまう映像」に変えている。
この演出を思いついた京極尚彦は凄い。「どこまで切り詰めれば同時感が出るのか」を綿密に計算しただろうプリズムジャンプは『KING OF PRISM』の一つの到達点と言っても過言ではないだろう。

これを見れた事だけで応援してきただけのことはあった……。

最後に

EDはシャインではなく一条シンで「BRAND NEW TOMORROW」。
今回はシャインのプリズムショーなので本当の意味でシンのソロ曲はこれ一曲となる。ゼウスの作曲した「元々使う予定だった曲」は円盤特典にでも収録しておいて欲しい。よろしくお願いします、西さん。

いよいよ最終話となるわけだが、プリズムスタァ達の信念の物語としてはハッピーエンドになっているはずなので楽しみにしておいて欲しい。








プリズムの煌めきを広めるためによろしくお願いします。