かげきしょうじょ

『かげきしょうじょ!!』を読み始め、私は終わらない円環に陥った

今朝、目を覚ましてまず最初にやったのは『かげきしょうじょ!!』をシーズンゼロから既に読み終わっている巻まで読むことだった。
緻密にして精密、穏やかであるようで荒々しさも持ち合わせるこの作品は読むたびに新たな発見をもたらし、何度読んでも同じ場所で息を呑まされる。そして読み終わるとベッドから出て日々の生活をこなす。作業の合間にはその時の気分に合わせて読み終わっている『かげきしょうじょ!!』の中から一巻だけ抜き出して読み、再び作業に戻る。
夜は夜で余力がある時は未着手の巻を手に取ってその面白さに圧倒され、ない時は既読の巻を読んでその美しさにため息を漏らし、眠りにつく。
そして朝になればまた『かげきしょうじょ!!』をシーズンゼロから読む。
まるで世界が一巡しているかのように。ここ数日はずっとそんな生活を続けている。もはやこの作品がなくては生活が成り立たなくないのではと感じずにはいられない。私は今、完膚なきまでに『かげきしょうじょ!!』のその面白さに打ちのめされていて、完全にこの作品に生活を支配されている。

度々ページを捲る手を止めて「なぜ『かげきしょうじょ!!』が私の心をこんなにも掴んで離さないのだろうか」と思案しているが、決定的な答えとは未だ出会えていない。
その理由の中には「現実は綺麗事ばかりじゃないし美しい夢もないが、舞台の上には綺麗事も夢がある」というショービジネスの基本とも言える考え方と、「その『舞台の上の夢』に向かって頑張る姿が美しい」があるとは思う。
私がアイドル物を愛するのも結局のところ、そういうところが気に入っているからだ。
フリルやリボンがたくさんついた可愛らしい衣装に身を包み、ポップなリズムに合わせて舞い踊り、一生懸命に歌っていたとしても、その舞台の裏側ではやっぱり血の滲むような努力があるし、才能の優劣だってある。
そもそも「同じ夢を抱いたとしても、そうした素養を見いだされずにステージに立てなかった有象無象の人達」の屍の上に成立しているのがそうしたステージである。
私はそうしたどうしようもない無情な点を、見て見ぬ振りして綺麗なところだけ描く作品も、あえてド直球でそういう舞台裏を描く作品もどちらも好きだ。なので後者に入る『かげきしょうじょ!!』が嫌いであるはずがない。むしろ「大好物」と言っても良いのだが、しかし「『毎日読み返しても飽きない』という感覚はどこからくるのか」という謎が未だに分からない。分からないままずっと読んでいるし、一巻進める度に『シーズンゼロ』から読み返している。そして読み終わる度にこう思うのだ。
「この面白さで一巻辺り約600円は安すぎるのでは?」「あと物理書籍でも買っておきたい」と。
最高の物語体験すぎて生きてて楽しい。
新たな傑作に巡り合うために私の人生はあるので、『かげきしょうじょ!!』と出会えただけで生の充足感で身体が満たされている。最高だ。ありがとう『かげきしょうじょ!!』。

ところで群像劇構造へとシフトした結果、一つ一つの話のパワーが強すぎて一巻どころか一エピソードごとに感情がこみ上げてきて言葉にならない声を上げずにはいられない問題がある。
特に三巻の番外編、ちょっと最高すぎる(最高以外の言葉が出てこないので最高としか言えなくなっている)。あと話が進むにつれて上がっていく奈良っちの最高具合。さらさも好きなんだけど、やっぱり奈良っちよ……。

プリズムの煌めきを広めるためによろしくお願いします。