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私達はもう『劇場版少女☆歌劇 レヴュースタァライト』のある舞台に立っている。

『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』は傑作でした。オープニングからエンディングまで、余すところなく傑作でした。
本作を傑作足らしめている要素として「シリーズの集大成」「二時間ずっと面白い脚本」「外連味たっぷりな舞台設定と幾原邦彦ライクな演出の高いレベルで融合した映像設計」など、ぱっと思いつくだけでも両手の指の数より多いのですが、個人的に一番素晴らしかったのはメインキャラクター達全員に「生きていく」ということを「自分の表現」として演じさせた事で、それを見れただけで「ああ。もう。傑作だ」と満足してしまいました。
見に行く前はここまで陥落すると思ってなかったのに!

私とレヴュースタァライト

まず最初に述べておきたいのですが、私は今まで『少女歌劇レヴュースタァライト』が深く刺さらなかった人間でした。
「面白い」とは感じているし、「よく出来ている」とも思う。でも「『レヴュースタァライト』という作品に夢中になったか?」と言われるとそうではなかったし、「ファン」と言えるほどの強い気持ちや『レヴュースタァライト』に揺さぶられた体験は持ち合わせていませんでした。

それは映画館で『ロンドロンドロンド』を見た時もそうでした。
「再演と見せかけて完全新作」という離れ業を決め、「舞台演劇」が根底にある作品としての真骨頂をぶつけてきた『ロンドロンドロンド』を見ても、私の心は対岸の火事のように受け止めており、完全新作映画の制作決定の告知も穏やかに受け止めていました。

そんな私がなぜ見たかと言われると、熱狂的な『レヴュースタァライト』の嘆願があったからでした。
「見てください」ではありません。「頼む。見てくれ」です。
私が『KING OF PRISM』の時にやったことを、そのまま『レヴュースタァライト』のファンにやられたのですから、これはもう見ないわけにはいきません。『レヴュースタァライト』は刺さらずとも、『レヴュースタァライト』のファンから受けた恩義は心に刻まれていたのですから。

そういう理由で『少女歌劇レヴュースタァライト』を見てきたのですが、面白かったです。
今まで刺さってなかった分今回の映画で連鎖爆発を起こして火がついたと言いますか。今ちょっと自分でも信じられないぐらいに好きになってますね。

レヴューで魅せる「生きる覚悟」

今回の『レヴュースタァライト』を一言で表すのなら「進路相談」になるでしょう。

卒業を控えた愛城華恋達が再び始まった命がけのオーディション「レビュー」の中で己と向き合い、自分の進路を見出していく。

物語としては本当にこれだけ。「二時間もある映画としてはシンプルすぎる」と感じる方もいるかも知れませんが、本作の主役を務めるのは舞台少女。すなわち「舞台で生き、舞台に生かされる少女」である事が、このシンプルなストーリーをキャラクター達の生き方を重層的に描く舞台装置として機能させているのです。
どういうことかというと、今回のオーディションでは「卒業後はどうするのか(=これからどう生きていくのか)」と同時に「舞台演劇の世界とどう付き合っていくのか」が描かれているんですね。

人間としての生き方。舞台役者としての生き方。
舞台少女達に突きつけられたその二種類の「生き方」を同時/並列/融合/交差させながら描いていく物語が面白くないわけがないのです。美しくないわけがないのです。
『レヴュースタァライト』は、「人生」という舞台に上がった人間達の物語と「舞台」という生き方を選んだ少女たちの物語を同時に描き、なおかつ登場人物全員の「生きる」という眩しさで魅せてくるのだから、もうあの輝きが瞼の裏に焼き付くのも仕方がないことでしょう。

また愛城華恋の舞台少女としての輝きは今回最も美しいものの一つでしたね。
「神楽ひかりと二人でスタァライトしたい」という願いのために舞台の世界に飛び込んだ彼女にとって、「願いが叶えられた後の世界」は未知のもの。その未知の世界へと踏み出し、生きていくための知識も勇気も覚悟も愛城華恋にはない。
その事を「神楽ひかりとの出会い」から「聖翔音楽学園入学」までを丁寧に描くことで、「舞台少女としての欠落」を理解させられる。
その愛城華恋の欠落が「アタシ再生産」と「舞台少女・愛城華恋の誕生」をより鮮烈な輝きにしているように思います。

映画館にハマった抽象化演出

また『ユリ熊嵐』などの幾原邦彦監督作品に演出として携わっていた古川知宏監督なので、映像から幾原邦彦の因子を強く感じる作品でもありました。特に「意図的に抽象化して視聴している人の想像力に解釈を委ねることで、描きたいことをより先鋭なものに変える」という部分に関しては、題材である「舞台演劇」との親和性の高さや、「映画館」という特殊環境であることを利用しているため、TVシリーズ以上に効果的に用いられていたかなと思います。

個人的に印象深いのはやはり「キリン」でしょうか。
本作におけるキリンは進行役であるとともに、舞台少女たちの戦いを見守っていることから観客の暗喩でもあるわけですが、そんなキリンの存在が舞台少女達の糧となり、彼女たちは舞台の上で生き生きと活動するのはこれはもう「舞台演劇は観客がいるからこそ成立する」という部分を「台詞」という音声表現ではなく「映像」という視覚表現に上手く落とし込めていたと思います。
また舞台に上がっているにも関わらず演じようとしない舞台少女が死んでしまうのも上手かったですね。

前述したように物語がシンプルな分、映像に盛り込まれた比喩表現、概念化された部分が多いので、読み解いていくことで作品の面白さが十倍にも百倍にもなるのは『レヴュースタァライト』の面白さかと思います。

理解を促す暴力的な音楽

そんなユニークな映像を盛り上げる音楽も最高でした。
ジャンル的にはミュージカル映画ですし、レヴューのたびに新曲が流れるような作品なので歌がとにかく多いんですが、今回はレヴューに応じて舞台設定もガラリと変わりますし、キャラクターの立ち位置や演じている役はシチュエーションによって変化するので音楽のジャンルも、歌っている役者の表現もコロコロ変わるので同じような曲が一つもない。
このシチュエーション、このキャラクターのこの時間軸でしか成立しない!みたいな歌が「このシーンで使い切る」みたいな速度で出てくるのは楽しすぎました。
また映像と音楽が連動している事で相互に作用しあい、作品への理解度を上げる手伝いをしていたのも面白かったですね。
分かりやすいところで言えば、双葉と香子のレヴューですが、舞台セットに書かれた文字が、今流れている曲の歌詞になっているので、ただの劇中歌ではなく「より二人の気持ちに深く潜るための楽曲」として機能していたかと思います。

結びに

幕が上がると舞台は生まれ、幕が下りると舞台は死ぬ。
その儚い一生の眩さに魅せられ、何度も何度も同じ演目を繰り返していた少女と、そこからの脱却及び次の可能性へと辿り着いた物語が『ロンドロンドロンド』でしたが、今回の『レヴュースタァライト』は『ロンドロンドロンド』で示された「次の可能性」を描き切ってくれました。
そして描き切ってくれたからこそ得られるものがあります。
それは「今までの作品の見え方が変わってくる」ということ。
「全てが本作に繋がってくる」という前提に立った時、今まで発表された全ての『レヴュースタァライト』は当時と異なる印象を受けるかと思います。
つまり「再生産」です。
本作によって全ての『レヴュースタァライト』は再生産を迎えたのです。
コンテンツそのものを「次の舞台」に進めた作品なんですよ、この作品は!

貴方も『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』のある舞台で、「生きる」ということを演じませんか?




プリズムの煌めきを広めるためによろしくお願いします。