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クゥイド・プロ・クゥオ

昔本屋でバイトしていた時、お客さんが一冊の学習参考書を手に取って、「こういう本がたくさん並んでるとさ、俺の学生時代ってなんなんだって思うよな」と言った。その手中には、「中学三年間を〇〇時間で完璧マスター」という(ような)タイトルがでかでかと書かれていた。
こういうタイトルの本は今でもよくよく見かける。それらの本には「時短」というキーワードがある。情報が氾濫する現代社会では、人一人の時間の価値は高まり、自分にとって有益となる情報を効率よく摂取しなければならない。間違いを犯している無駄な時間はない。そういう勤勉な人達が世界を回していたり、富と名声を手に入れていたり、多くの人達から注目されている(っぽい)から、そういう立派な人に自分もなるべく、最短距離で正解のルートを突っ走らなければならないのだ。

でも、学生時代は無駄な時間なのか。社会に出て振り返ってみた時、自身の学生時代を無駄な時間だったと切って捨てることができるだろうか。私は本当に無駄だったと思う。ゲームをしたり、漫画を読んだり、友達と馬鹿みたいに遊んだり、学校の勉強は好きでも嫌いでもなかったけど、本当に過ちが多くて、今思い返してみても悶絶する位恥ずかしい。どのような学生時代を過ごしたかは人によりけりだが、私の場合客観的に見れば愚図で間抜けな学生だったかもしれないけれど、個人的に自身の学生時代はまったく無駄な時間とはとても思えない。
確かに学生時代も無為に過ごさずに正鵠な情報を得て「正解」の道を選んでいれば今の自分がもっと「高み」にいたのかもしれない。「あの時ああすればこうなっていただろう」という過去に抱く夢や希望は、無限の可能性の世界を見せてくれる心地よいものだ。しかし、そんな風にいくつもの可能性に思いを馳せつつも、振り返ると選び取った一本道を歩いていて、それだからこそ、ここに至る自分の人生は際立っている。それがどんなに間違っていようが唯一無二の自分の人生だからだ。そして、誰もがそのような「あの時ああすればこうなっていただろう」という思い出が一つや二つはたまたたくさんあるということは、誰もが最適な「正解」など選べないということだ。それはどんなに短時間で正しい情報だけを得ようと努力しても、絶対に実現しないものなのだ。

『一番の近道は遠回りだった』『遠回りこそが俺の最短の道だった』とジャイロも言っているよ。

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