短編 薄荷

・学校用のiPadから発掘された、提出され得なかった創作の課題。あまりに拙いのですがどこにも行き場が無いので加筆修正無しで供養。小説向いてないよ~~。





緩やかにホームへ滑り込むいつも通りの電車から降りて、いつも通りに改札をくぐった。不意に視線を上げると漆を重ね塗った空に星が瞬いていた。それと同時に鋭く冷えた空気が肌にぴしぴしと突き刺さる。


今日は疲れた。


何もこれと言った原因は無い。睡眠時間は不足無いし、体調も申し分無い。なのにやることなすこと全て満遍なく上手くいかなかった。そもそも朝の支度で前髪が微塵も私の意志に従わなかった時点でもう今日一日は厄日と決まっていたのではないかという気さえしてくる。こんな時に、「まあそんなこともあるよね!」と言ってすぐに切り替えられる人が心底羨ましい。とはいえそんなことを考えていても仕方がないので、重い足先を叱咤しつつ歩き出した。


家へ帰る道の途中、毎日渡る歩道橋がある。また両親の仕事の都合で今の街に転居する前に暮らしていた街にも歩道橋があり、幼い私はそこを渡るのが大好きだった。本来の何倍も高く、広くなる視界は私をただ漠然と、しかし朗々とひたすらに自由だと感じさせてくれたし、足元のはるか下を走り抜ける自動車も普段より小さく見えるのもそれを加速させた。特に好きだったのは街を丸ごと燃える夕焼けでくるんだような秋の夕方の景色だった。幼い子どもの知覚出来得る狭い狭い世界で一等特別なその空間は、まるでそこだけが不思議な別世界であるように思えてならなかった。


流石に高校生にもなった今ではいちいち歩道橋を渡るだけでそこまでの感動を覚えることはないし、毎日歩く代わり映えのしない道の一部でしかない。しかし今日は一味違った。


満月なのだ。


冬の澄んだ空気に煌々と輝くまん丸い灯りは美しく、手を伸ばせば触れられそうに大きかった。それを見てはたと思い出した。小学校高学年の頃、詩であったか物語であったか、もしくは歌仙か定かでないが満月をハッカ飴になぞらえた作品を読んだことがある。当時の私はそれをきっかけにハッカ飴に対して大変な憧れを抱き、どうせ途中で味に飽きてしまうでしょうと嗜める母に頼み込み一つだけ口に放り込んでもらった。結局母の思案通り私はすぐに思った味じゃなかったとしょげることになったのはよく憶えている。


それでも、満月を表現する比喩の材料としてハッカ飴はとても秀逸なものだと今でも感じるし、名前も忘れてしまった作者の感性に深く共感してしまう。帰宅したら少し調べてみてもいいかもしれない。

ふと思い立ってスマホのカメラを起動し、満ち満ちた月をレンズに収めてみる。以前自撮りの得意な友人に手取り足取り仕込まれたテクニックを駆使してあれこれ設定をいじくり回し、シャッターを何度か切る。


下手だな……


ただの真っ暗い背景に白い光が映るだけの不気味な画像が出来上がってしまった。ピンホールカメラの構造にこんな部品があった気がする。しばらく格闘してみたが北風吹きすさぶ路上でいつまでもスマホを構えている訳にもいかず、諦めて退散した。月から意識を逸らした途端急に寒さが襲いくるので思わずジャケットのポケットに両手を突っ込む。


歩道橋を降りてしまうと後は特に面白味のない道が家まで続く。ただ月がずっと追いかけてくるだけだ。


しばらく歩いていると手に持っていたスマホが震えた。信号が赤になったのをいいことに確認してみると友人からの「月めっちゃ良い」、というメッセージ。だいぶ大味な感想ではあるが自分と同じように友人もどこかで月を見ていたことに嬉しくなって、私も先ほどの大失敗した写真を送っておいた。信号が青になる直前に来た通知で「何をどうしたらそんなことになるの?」と見えた気がするがそのまま電源を落とした。

やっと家に帰り着くと、ダイニングテーブルに母のお気に入りであるハッカ飴の袋があった。封が開いていたので一つ口に入れて、しばらく味わってみる。

「やっぱりあんまり美味しくないな」

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