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潮色の花束


(2024/04/22)

・地下鉄の駅、前を歩く人のリュックから花束が飛び出しているのを見かけた。取り立てて華やかというわけでもない、華奢でささやかな花束。ややがさつとも言える扱いのそれは、しかし確かな感情を纏って見えた。
花束の用途は様々だ。苦しい思いをしている誰かへのお見舞い、いつかの今日に生まれた誰かへのお祝い、花舞台を終えた誰かへの労いに。はたまた何でもない1日に、自分ただ一人に捧げる色を挿すため。
あの少年の花束はどんな行方を辿るだろう。

2024/05/18


・私にとっての花束の話でも書いてみよう。


・私の部屋にも花束が一つ飾られている。白い花瓶に挿された100均の造花の花束。友人と連れ立って海に出かけた日に、写真映えしそうじゃない?という友人の提案で1つずつ選んで購入したもので、その日の潮風をたっぷり浴びたまま今も変わらない姿で咲いている。

・1年前と同じ日に、同じ海に行こう。
2人の間でその話が勃興したのは2月初旬、実行日はちょうど今から3か月前の2月18日。かつての自分たちが何を思って真冬の海水に浸かりに行こうと企てたのかはもはや思い出せないが、どうせやるのなら精度を求めようということでわざわざ電車で数時間かかる海へ出かけた。

道中カメラロールに眠る写真と全く同じ構図で何枚か写真を撮り、1年程度だと街も私たちも特に大差ないね、と若干盛り下がりつつ海岸に到着。冬晴れの空、白波のさす海が大きく開けた視界いっぱいを埋め尽くす。何度体験しても心躍る光景だ。写真で見るのも味があって良いが、何よりの1番はあの決して交わらない2色の青で直接この目を満たすことだろう。

しばらく波打ち際を歩き、幾度もシャッターボタンを押すことで気がついたが、造花と海辺は想像以上に相性が良い。まず無機物で作られた有機物である造花を自然の光景に差し込むと、多少なりとも違和感を感じる。齟齬がある、と表現するのが個人的にはしっくりくるニュアンスの違和感。しかしカメラを通すとそこがかえって魅力的に映るのだ。これは新鮮な驚きだった。

制服に合わせた革靴で砂浜を歩くとだんだん砂が入り込み、いつの間にか紺の靴下が薄ら白く染まり始めた。いくら払っても焼石に水であったし、足を洗えるスペースもあったので靴も靴下も脱いでしまった。ぺたぺたと気の赴くままに砂浜を歩くと足が埋まって上手く歩けなくなっていく。この環境下でランニングをするなんて運動部は大変だなとぼんやり思った。

ここまで来たのに浸からないのは海に失礼だろうということで、裸足なのをいいことに1年ぶり2回目、がっつりと海にも入った。砂より石の感覚が強い地面、それを覆う肌が凍てつく冷たさの海水、極め付けは吹き荒ぶ潮風。全てが痛かった。そして真冬なのでいくら晴れていたところでシンプルに寒い。次第に感覚が麻痺してくると周囲を見渡す余裕もできた。そのときの動画も残っているが、浮かれてその場でぐるぐる回っているせいで手振れが酷く見られたものではない。見たらきっと酔う。

ひとしきり遊んで帰り支度を始めていると、男女の二人組に写真を頼まれた。生まれて初めて握るインスタントカメラは思いの外小さく、少し緊張したのを覚えている。
日が傾き始めた海に似合う、幸せそうに笑う二人だった。インスタントカメラといえば現像するまで写真の出来を確認できないことが醍醐味だが、私の撮ったあの写真ももう現像されてしばらく経っているのだろうか。二人に満足して貰えていると嬉しい。

それから日没を見送って、すっかり暗くなった海を後にした。疲労で動きの鈍い頭で取り留めのない会話を繰り返しつつ電車に揺られているといつのまにか乗り換え駅に着いていた。

・こうして思い返してみると随分過去のことだと思っていた1日が存外そうでもないことに驚く。当時の私はかなり精神をやられていて数時間先のことすらまともに考えられない、考えたくない状態だったので、その遥か先の今、そんな日も過ごしていたなと懐古に浸れることに安堵した。
花束、枯らさないようにあとで埃を払っておこう。





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