どこにもいない

 生きていて甚大な問題が自分に降り掛かったとき、それを受けて自分の身の振り方を考えて決断する必要が生じたとき。私の口からは毎回必ず、「君はどうしたいの?」という言葉が勝手に零れる。

これは単純に考えれば自分自身への問いかけの言葉である。自問自答のその始まりを仮初の他者からの質問の形にすることは、行き詰まっている問題を解消するための思考に割くリソースを増やすことにも役立つかもしれない。
 
 ただ私の場合の「君はどうしたいの?」という言葉はいつでも自分ではない誰かに向けて放たれる。「他者(の体裁を取った自分)→自分」の形式でされるはずの問いかけが、「自分→他者」の形式になっている。他者(の体裁を取った自分)ですらなく。
 だからいつも、「君はどうしたいの?」という言葉を発した時点で思考が止まってしまう。なぜならその時点でもう、その言葉が引き連れる諸問題に関する思考は自分の外側に放り投げられてしまうから。実際には存在しない自分ではない誰かに自分に降り掛かった問題を放り投げ、それで満足してしまう。自分は安心していいと錯覚してしまう。
 
 要するに現実逃避だ。私の中でこの流れは常態化してしまっている。いつも自分が何をしたいのかが分からないし、自分の決定に自信が持てない。
 
 その原因は割と明白で、やはり家庭環境やそれに付随する様々な悪い方向での衝撃的な体験。それらから「これは私自身の体験ではない」と思い込むことで逃避しようとした過去が確かに私にはある。幸か不幸かその試みは中途半端に失敗しており、今の私にはいつまで経っても微妙に消えてくれない悲惨な記憶やらトラウマが残り、自分の人生に対する現実感が大幅に消失している。
 しかしそんなこととは無関係に人生は進んでいくし、この習性は如実に私の人生に支障を来たしている。大学で学びたい分野は明確なのに自分が高校進級、卒業したいと思っているのかわからないって何なんだ。
 
 なので解決を図るべく最近は自問自答のときに「君」やらの2人称の使用を禁ずる規則を自分に課している。
 私はどうしたい?私はどう思った?私は何を感じた?私は何が嫌で何が好き?
 何か重大な判断を下すとき、多少面倒でも丁寧に、多角的に自分の意思や感情に目を向ける。正直頭がおかしくなりそうだし逃避していた方がよっぽど楽だ。思考のスピードは恐ろしく下がるしメンタルがやられる。
 
 でも実在すらしない「君」に自分の選択を放棄して、何も考えられずに寝腐って呆けているうちに自分の人生が崩壊していくよりは、些細でも何らかの行動をもって変化を望んでいる方がずっと良いんじゃないかと思っている。
 とりあえずはこういう事柄に関しての知識がもう少しほしいのでやさしい書籍を探してみたい。



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