私が言葉を好きな理由

思えば小学校の頃には既に、言葉に取り憑かれていた子供だった。
Jポップのヒットソングがテレビをつければ流れる中で、私はジャニーズやカバー曲を歌う人を、軽蔑しながら見ていた。
なぜこんなものが売れるのか、なぜ人はこれを好むのか、「ばかじゃないの?」と本気で思っていた。
その理由はただ一つ「その人が書いた歌ではないから」つまり、歌詞を歌っている本人が書いているかどうか、が私が曲を聞くまず最初の判断基準だった。
そのときの私の理論はこうだ。


「いくら歌がうまくても、人が書いた歌詞を歌ってる時点で、心がこもる訳がない。そんなものを聞く価値はない」

それくらい、言葉というものが無意識的に好きだったんだろうと思う。
最初に音楽に触れたのは、もっというと歌詞を通じて言葉の面白さに触れたのは“ジューク”だ。ダブルボーカルだが、特に健治の書く歌詞に私は心を掴まれた。歌詞カードを見つめながら、その歌を作った彼の心境や背景を想像していた。そうやって聞いていると、まるで新しい世界を見ているような、隣にいて同じ経験をしているような気分になった。
私には全く経験していない事なのに、その面白さや難しさや美しさをこんなに鮮明に伝えることが出来るなんて!
心のグレーゾーンや、赤や青だけでは表せられない気持ちの混ざり方を、こうもすんなり伝えられるなんて、と、学校で習ってきた日本語とは全然違う言葉を再発見する気分で聞いていたのを覚えている。

そこから私は本ではなく音楽で言葉に触れていく。
とにかく言葉を追い、歌を聴いた。メロディーではなく、テンポでもなく、とにかく歌詞を追うことが何より私の心を満たした。
ジュークの他に好きになったのはBUMP OF CHICKEN、そしてRADWIMPSだ。
この3組とも、一度聞いただけでは分かりにくい言葉を使い、そして歌詞にすごく主観と本音と偏見が散りばめられている。
私はその感性に嫉妬し、感嘆していた。

私たちが生きているこの日常の、ほんの小さなシーンや出来事を、どこまでも自分なりに解釈をしてその見解を世界に発表する。
そんな音楽を作る人が大好きだ。そしてそこに少しの希望を残してくれる。世界を美しくしようとする願いがこもっているような歌詞に心奪われ続けた。

そんな体験から、私は言葉に大きな期待をしながら生きることになる。
言葉があれば全てが伝わるんだと信じきっていた時期もある。
言葉は万能だと思っていた時に、自分の使う言葉の意味が相手には違うように解釈されることがあるということも知った。
どうやら言葉は万能ではなく、一つの文章も聞く人によっては違う意味で理解されることもあるのだとわかった時は、軽く絶望した。
言葉より表情だ、とか仕草だ、とか言われる時も、確かにその方が簡単でわかりやすいもんなと思ったこともある。

だけど、だ。
言葉は難しい、だからこそ、より正確に伝えられるんじゃないかと思う。
自分の内側を、その時の感情を、物事の解釈を、yes,noだけではなくyesでもありnoでもあるというその微妙なラインは、どう考えても言葉でしか伝えられないんじゃないか。
難しいからこそ、あらゆる言葉を使い、並べ、組み合わせ、それをその人に一番伝わる形にする努力がしたいと思うようになった。
私はどこまでも、言葉で励まされてきた人だ。
悩んだり、疑問に思ったり、憤りを感じるときは誰かに言うでもなく、歌詞を見ながら音楽を聴き勝手に深く共感してくれているようなそんな気持ちになって励まされて乗り越えてきた。
もちろんだからこそ、言葉を乱暴に使う人には戸惑わされ、何度もがっかりさせられた。それくらい、言葉に夢を抱き恋をしている。

「話してわからない事はない」なんて嘘だと、世間では言われる。
確かにそうなのかもしれない、と思ってしまいたくなる出来事もたくさんある。
だけど、大人になった私は、「話してわからない事はない」という主張を肯定したいと思っている。

たとえ難しいとしても、伝わるまで、話したい。
言葉で伝えきるということは、諦めない価値がある事だと信じている。

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