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今だからこそ、大切な人に伝えたい想いがある

写真は、大学時代いつも通っていたキャンパスから見上げた空。所属している会社、CRAZYでの日々が楽しすぎて、心の動きに苦戦しながら修士論文に取り組んでいた時期の1枚。懐かしい。

つい数日前、学生時代お世話になっていた先生から連絡をもらった。「東京大変になってきたけど、乗り越えてね。きっと時代が変わるね。」と。なんでも無い連絡だけど嬉しい気持ちになった。担当教員でも、学部の先生でもなく、私自身は授業を受けたこともない先生。だけど学生時代から何かの折に会っては、他愛ない会話をしていた先生。その先生の日常にまだ私は存在していたのだと嬉しくなった。同時に先生の心の範囲の広さを、改めて敬慕した。

新型コロナウイルス感染症が私たちに教えてくれたこと

この情勢、この日々は、「今この瞬間を生きている」ということを私たちに教えてくれた。

新型コロナウイルス感染症の影響で、所属している会社は、2月下旬から自宅勤務になった。この影響はものすごい。沢山の時間を生み出している。通勤時間が無くなるのはもちろんのこと、休憩時間に家のことが出来てしまう。集中空間が非常につくりやすくて、タスクの生産性が上がったりもする。これまで捻出出来ていなかった時間が手に入った。これは、私だけでは無いと思う。

だけど、その時間を人に会うことには当てられない。出来てもオンライン上で話すことだけだ。初めは、何気ない日常の会話をがオンラインになることに、私の中で大きなストレスは無かった。だけどこの日々が続くにつれて、結婚式のみならず誕生日や就職祝い、出産祝いなど、毎日に散りばめられている節目が感じにくくなっていることに気がついた。その時、得も言われぬ窮屈さを感じた。

それは、私にも実体験を伴ってやってきた。5月頭に予定されていた祖父の法事の開催を検討することに。何れにせよ、都内に住んでいる私は帰省を断念せざるを得ない状況である。帰省の機会は貴重だし、両親に会いたい。同時に祖父の法事は、感謝と自分自身のルーツを感じ直す大切な機会だ。意気揚々とカレンダーに入れていた半年ほど前の私は、こんな事態で帰省を取りやめることになるなんて思ってもいなかっただろう。


そんなことを考えていた時に、自分の誤りに気がついた。コロナが無くても、いつだってこうなる可能性は0ではないのだ、と。

自分の意志があれば、いつだって一緒に過ごせる。そんな考えは傲慢だ。私たちは、常に今この瞬間をどのように生きるのかを選択して過ごしている。選択するということは何かを得ると同時に、手放すということであり、リスクを背負うということである。その結果が今回は、会いたい時に大好きな家族に会えない、ということだったのだ。

人は生きている限り永遠に、いついかなる瞬間でも、誰かと一生会えなくなる可能性をはらんで過ごしている。同様に人は、永遠に、いついかなる瞬間でも、「今この瞬間」しか生きることは出来ない。「今この瞬間」に最大の幸福があるのが、人生の常なのだ。その真理に近いであろう事実を、リアルに身を持って感じさせてくれたのが、今回の出来事だった。

だから私は、今を生きたいと思う。

直接会えない人、直接祝えない節目は、今沢山ある。だけど、「後から、会えるようになってから」なんて言っていたらその瞬間はやってくるかどうか分からない。私たちは未来に生きることは出来ない。今しか生きられない。

だから私は、今伝えたいことを、届けたい人に伝えたい。今その人達と過ごしたいと思う時間を、実現できる形で過ごしてみることにした。

それは言葉を贈ることかもしれないし、贈り物を届けることかもしれないし、ただ何気ない会話を交わすことかもしれない。大切なのは、今自分の手で手放したくないものを、しっかり握りしめられているかどうか、ただそれだけだと思う。


だから私は今日も、晩ごはんのお味噌汁を作りながら両親と他愛のない話をしようと思う。



ありがとうございます^^