ことばとわたしの距離
言葉にすることが苦手だ。
これは得意か不得意かというよりも、好むか好まないかという意味合いで、「好まない」ということだ。得意か不得意かでいくと、得意だと思う。
「好まない」からSNSも気がすすまない。だけど言葉にすることが苦手だ、というと友人は不思議がる。それはたぶん、言葉にすることを「好まない」私が、人並み以上に、言語化したり簡潔にまとめたり、分かりやすく伝えたり、難しいことを考えたりするのが、得意かつ好きだからだ。
私は、そこに絶妙な矛盾があることを横目に見ながら過ごしてきた。
わたしとことばの関係
言葉にすることを無邪気に愛していた時代があった。子どもの頃、俳句や短歌、詩、作文をたくさん書いた。賞もたくさんもらった。中高ぐらいになるとそれに加えて小論文も書いた。大学では大量のレポートと研究論文を書いてきた。やっぱりそれらは引き続き得意で、人のこういうことを書きたいという感覚を文章に落とし込む係になることも少なくなかった。そしてそれぞれ書くことの何十倍も何百倍も何千倍も読んできたし、読むことはずっと好きだった(今も)。
こう見ると、ずっと好きやん!ってなるんだが、そうではなかった。高校後半〜大学初期にかけて、言葉にすることがどんどん苦手になっていった。厳密には、苦手というより「億劫」。
それは、その時期にいくら言葉で、上手に、きれいに、美しく、正しいらしく、限りなく真理に近そうなものを抽出して、表現しても、その先に一体化はないことに気づいていったからだと思う。
広がることばとの距離感
わたしは小さい頃から、とにかく一つになりたかった。特に好きなことや好きな人は、全部知って、全部理解して、全部分かって、全てを包含して一つになっていたかった。それが幸せだと思っていた節がある。
そして、一つになることを助けてくれるのが言葉だと思っていた。正確に言葉にすれば、効率的に一つになれると思っていた。だからわたしはたくさんの言葉の表現を好んで身につけていった。
そんなわたしの目の前にやってきたのは、正確に(≒明確に)表現することで失われていく「それ」の存在だ。
幼いころの私はそれの存在にまったく気づかなかった。その時の私は言葉にできる範囲が広がっていく日々に喜びを感じていた。このまま突き進めば一つになりたいという願いを叶えられるとさえ思っていた。
正確に表現することで失われていく「それ」の正体は、世の中では「間」や「余白」と呼ばれるものらしい。
自分の世界の感じ方が豊かになればなるほど、「それ」でしか伝えられないものがあることに感覚的になっていく。もっと言えば「それ」の方が重要なものを含んでいるような気さえしてくる。気がするというかもはやそれが確からしい。
「それ」を表現しようと言葉を綴ると、「それ」は割とのびのびと存在し続ける。だけど今度はその解釈の余地で、誰かや何かが傷ついてしまうような不安が湧いてくる。
そんな不安を感じているうちに、私と私が表現したいことばの距離はどんどん広がっていった。
傷つけるのが怖かった。即ち、自分が傷つくのが怖かった。そういうことだ。
これからのわたしとことば
それに気づいたので、傷つくことを恐れないでことばとの距離を縮めてみようと思う。自分の自由なことばをひとつの形にすることを恐れないでみようと思う。
恐れないでみようと思う理由はまだわからないけど、なんかそれでいいと思うから、そうすると決めてみた。
よく分からないなあという人も、何となく分かるかもという人も、とってもよく分かるという人もいると思うのだが、とってもよく分かるわあという方は一旦、一言もらえるととっても嬉しいです。笑
ありがとうございます^^