看取る人、結婚する人

なんとも人生史に残るような帰省だったので、帰りの飛行機の中、自分と向き合う意味でも、ここに記録しようと思う。

わざわざ札幌へ帰省をしてまで参加するつもりだった大好きな人の結婚式の朝、図らずも別の大好きな人を看取ることとなった。
冠婚葬祭とはまさにうまく言っている。

この6月に、親友が挙げる結婚式へ参加するため、週末を利用し4日間ほど帰省を計画した。
「洋服はどうしよう。アクセサリーも買わなきゃ。披露宴のご飯はどんなだろう。カラードレスは何色だろう。隣を歩くお父さんの顔を見たらきっと泣いちゃう。」そんなことを考えて、人生で初めての結婚式参列というイベントをすごく楽しみにしていた。

式の2日前である木曜の夜に東京から札幌の実家に帰り、次の日はリモートワークをし、早めに上がってアクセサリーを買いに街へ行くつもりだった。
空港を出て家へ向かうバスの中、実家の母は急用で出かけているらしく連絡は途絶えていた。
家のドアを開けると、病院から帰ったばかりだという母がいた。急いで明後日に着るドレスのシワを伸ばしている私に、4月から肺炎で入院中の祖父が危険な状態だと母は言った。

祖父。父方の親族が一切いない私にとって、母方の祖父が唯一の「じいちゃん」だった。家がすぐ隣の区だから、小さい頃から毎週末遊びに行き、夏休みは1人で泊まりに行ったりもした。一緒に住んではいなくとも大事な家族の1人である祖父。その祖父が危険な状態。実は今年に入って何度かそんなことはあり、その度に母は病院に呼び出され、その度に回復をしていたらしい。そんな祖父のことだ。3ヶ月前にも不調から回復して久々にみんなで温泉旅行に行ったばかりだ。今回も元気になるだろう、と思ったがどうも違うらしい。お祝いムードは消え不安で頭がいっぱいになる。最近友達から聞いた話を思い出していたからだ。
「同期の女の子なんだけど、ハワイで結婚式を挙げたその日にお母さんが現地で急死したらしいの。心不全とかで。」
聞くも因縁、と言う言葉を感じ取った。

次の日の朝、実家でリモートワークをしていると仕事中の母から電話が来た。祖父の血圧が70以下になったから病院へ行ってくれと。タクシーで病院へ向かい、病室に着くと痩せ細って苦しそうに寝返りを打つ祖父がいた。ご飯は食べられず、点滴さえももう数日できていないらしい。意識はあるのかないのか分からない。きっとなさそうだ。涙を流しながらそれでも声をかけた。じいちゃん、帰って来たよ、と。

10分ほどして母が職場から駆けつけ、その頃は少し容体は落ち着いていた。「もって1週間。今日明日明後日の可能性が高い」医者はそう言った。
とは言われても、私たちは残念ながら働く社会人である。容体が落ち着いた以上、良くなることはない祖父のそばでただ座ってその死を待っていることもできない。夕方また来る約束をし、母は仕事に戻り、私は病院の近くのカフェで仕事をすることにした。いない間にその時が来てしまったら?そんな不安が拭えず、仕事なんか手がつかない。

夕方18時に再度母と待ち合わせて病室へ向かった。落ち着いていたが意識はなさそうだ。ただ手を握りしめ、頭を撫で、帰るタイミングが分からないで1時間が過ぎた私たちに、意識のないはずの祖父が腕を上げ、行っていい、というような動きをした。それを合図に私たちは病室を出て、母も付き合わせて明日の結婚式に向けてアクセサリーを買いに行った。束の間の楽しい時間を終え駐車場から車を出した瞬間、また病院から電話が来た。「血圧が40代になったので、今夜は病室に泊まってあげてください」長い夜の始まりだった。

せめて私たち2人で看取りたい、絶対に1人で死なせるのは嫌だ、母とそう話していた。祖母は祖父とほぼ同時期に別の病院に入院していて来られない。伯父は父親の弱った姿が怖くて見られず面会に来ないらしい。根性なしだ。私は母に代わり、姪という立場で伯父に来て欲しいと改めて電話した。
病室で2時間経ち、喉が渇いたので飲み物を買いに行こうと母から数百円を受け取った瞬間に、伯父がやって来た。飲み物の入ったビニール袋を持っている。伯父が大きな声でまくし立てるように祖父に呼びかけると、祖父の体が見たことないほど大きく反応した。足をバタつかせ、真っ赤になるくらい伯父の手を握り返していた。意識はないはずだった。そんな姿にまた涙が出た。
その後伯父はすぐに帰ってしまった。途中私はコンビニに抜けたりもしたが、1時間おきに交代で休みながら母と夜を明かした。家に帰っていいと母は言ったが、自分がここにいる奇跡を無駄にしたくなかった。この地獄のような時間を母1人に背負わせずに済んで良かった。祖父の頭を撫でながらその顔を長い間見つめていると、あまりに母に似ていて複雑な気分になる。いつかくる未来を重ねてしまう。この使命と責任から目を逸らさず、焼き付けたかった。夜が明けるまで祖父の容体は穏やかだった。

朝7時、午後は結婚式へ参加する日だ。
母と、シャワーを浴びるために交代で家へ帰ろうかと話していた。10分後のバスに乗って帰ろうか、と話していた矢先に祖父の呼吸が止まった。よく分からない機械が0と表示されている。「じいちゃん!しっかりして!」なんて声掛けはせず、なんてことない会話をしていたときだった。寡黙で腰が低く、言葉で伝えるのが苦手な職人だった祖父。いつもうるさい私たちの会話をだまって聞いているのが日常だった。娘と孫のどうでもいい会話の中、少しはそんな日常の雰囲気を感じ、落ち着くことができたのだろうか。悲しくもあったが、穏やかに逝ったこと、2人で看取ることができたことに心から安心した。

そこから先は早かった。
通夜は2日後に決まり、祖母は無理やり退院し、兄は夜に神奈川から帰省してきた。母は葬儀屋と祖父を家へ連れて行き、私は実家に帰って結婚式に参加する準備をした。ドレスに着替え、ひどい顔に華やかなメイクをする。人生で一番キラキラしたアクセサリーをつける。情緒不安定とはこのことだ。

仲良しの友人と待ち合わせて式場につくと、新婦側の友人は私たち2人だけだった。披露宴の新婦側の参加者はたくさんの名前が載っているのに、式には私たち2人と親族だけ。そこから読み取れる自分たちと彼女が持つ関係の特別さに感極まり、始まる前から涙が出た。

チャペルの扉が開き、花嫁とその父親が歩いてくる。この子のおかげで帰って来れた。東京に住む私が奇跡的に札幌の祖父を看取ることができた。母を支えることができた。白いドレス姿が綺麗だった。15歳から知っている彼女。今が一番幸せだと笑顔が言っていた。喜びと感無量、そして少しだけの切なさを含むお父さんの表情が印象的だ。
「父親が生きていたとき、私のこんな姿を見たかったのか。東京にいかないでほしかったのか。」
まるで今回と関係のないことまで、一瞬で色んな感情が巡る。違うのはわかっていた。人はどこにいようと何をしていようと、決められた役割というものがある。本当に必要な時には必要な場所に、不思議な力で呼ばれるようになっているのを実感したからだ。
この子だけのお陰じゃない。去年の終わりにリモートワークができる会社に転職したこと、祖父が危なくなった段階ですぐに仕事を代わってくれる上司がいること、そんな自分の人生に今関わる事柄たちが、この日のために通じていた気がした。不幸と幸がそばにあり過ぎて、耐えきれなくておかしな涙が止まらなかった。

多忙な中無理やり帰省して、今年の3月に家族みんなで行った温泉旅行。
伯父さんが買ったはいいものの使いこなせていない一眼レフを渡して来たから、代わりに写真を撮った。めんどくさくて数枚しか撮らなかったけど、それでもすごく良い1枚が撮れた。そのじいちゃんの笑顔が遺影になって、今、目の前にある。

葬儀関係と、退院したての祖母の介護の手伝いもあったので、上司に相談し結局札幌には10日ほど滞在した。長くあまりに濃い帰省だった。
あの高校に入ってあの子と友達になったこと。
その関係が今でもより強固となって続いていること。
あの子が2024年6月15日を式に選んだこと。
私が場所を選ばず働けるような職を選んだこと。
実際にリモートワークができる職場に入れたこと。
一緒に働く人に恵まれたこと。
どれが欠けても、祖父を看取ることはできなかっただろう。

全てのことに意味はある。
運命が常にタイミングを見計らっている。
今は関係なくても、無駄な時間と思っても。
いつか感謝する日が必ずくる。そう実感した数日間だった。だからこれからもどんな時間も、出会いも、経験も、大切にすると宣言したい。

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