コーヒーとセックスとミルクティー

タイトルでお分かりのことでしょうがセックス(というか自分の性への態度とぼやき)の話します。見たくない人は見ないでね。

(言うまでもないか)

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前提として、私はセックスのこと、けっこう好きである。人に触れられたり人を触ったりするのは単純に楽しい。(もちろん一定以上好意的に見ている人に限る、ここでいう好意的っていうのは、最悪何か、つまり万が一子供ができるとか病気になるとかしたとして、自分の人生の一部としてぎりぎり受け止められる相手やシチュエーション、ということです)

貞操観念が薄いのは承知しているけれど、貞操ってなんだ??とも常々思っている。自分の体をささげる、みたいなことをまったく思ったことがないし、(前に人と話したことでもあるけれど)子供を作ることを前提としない行為は単に娯楽であって、互いの体を持ち寄って行うひとつの遊びに過ぎないと思う。恋する人や愛する人と抱き合うことは素晴らしいと思うけれど、それは別にセックスに限ったことではなく、愛する人といっしょに行う行為はすべて素晴らしくない?散歩でも料理でも喧嘩でも。と思っている。

なんだけど、なんだけども。話はここでぐるりと方向転換いたしまして、私は、人間関係にセックスが持ち込まれるのがけっこう苦手である。はい?と思われましたでしょうか。私も思う。水色は、行為自体は好きなんだけれど、行為を含んだ人間関係をうまく保つことがかなり苦手なんである。

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唐突ですけれども、私はコーヒーはブラック派で、ミルクや砂糖は入れない。カフェラテやカフェオレもあまり飲まない。私はコーヒーのキレのようなものが好きで、ミルクを入れると"濁る"感じがして、喉がモヤモヤするようで好きでないからです。(あくまで個人的な好みの話です、私の舌がそうなだけね)

で、人間関係におけるセックスは、私にとってちょうどコーヒーに注ぐミルクやお砂糖なんである。それ自体は甘くて美味しいけれど、モヤモヤする。私の好きな人間関係のキレ、愛する透明な光のようなものを邪魔して、心をあやふやにしていく。だいたいいつも、セックスが入ってくると私はうまく相手との距離を図れなくなって、「好き」を保てなくなってしまう。だから苦手。

結果、セックス自体は好きだけど、好きな人間、人間関係を続けていきたい相手とはできればしたくない、というわけの分からないことになる。なっておるわけです。

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なんだろう、事を致すと、なんだか「底が見える」感じがしてしまうのだ。なんか、相手のことも関係性のことも、急につまらなく思えてしまう。私自身、やったところで私の何が分かるわけでもないですわよ、フン、と思っているのに、大変勝手な話である。自分の心がよく見えなくなって、なぜかまっすぐ話ができなくなって、怠いような靄の中、やがて私は別れへと向かう。そんなことばかり繰り返している。ただ初めから好きでなかったということなのかもしれない。そう考えては、ひどく悲しくなる。自分自身のしょうもなさに。たくさんの自己矛盾に。

うーん。

でもひとつだけささやかな希望があって、私は、紅茶には好んでミルクを入れる。

ミルクティーには、濁っているとかモヤモヤするとか思わなくて、一体として美味しいものだなあと思っている。そういうこと、あればいいなと私は想像する。ミルクティーみたいな。セックスという行為が不純物でなく一体として心地よく混じり合っていく関係性、その白さがやさしさや柔らかさとしてふたりを包んでくれるような、そういうのもあるのかな。見つけられたらいいのに。

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…以上、これは今回人と付き合うことにするより前に書いていたもので、またちょっと思うことはあるけれど、ひとまずこれまでの記録として残しておきます。(もともと人に公開するようなことでもないかなと思って下書きのままにしてたんだけど、こういう人もいるんだなあと、誰かの"ふ~ん"になればいいかなと思って表に出してみることにしました)

今後のことは、相変わらず不明です。どうだろうねえ。

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百人いたら百人の悩みがあるものですが、全員きっと幸せになろうね。どんなやり方でもいいから、全員違う方法で、(セックスがあろうとなかろうと)みんな幸せになりましょう。

ではまた。おやすみなさい、良い夢を~。




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