【映画レビュー】『映画大好きポンポさん』:創作活動の本質と矛盾について考えた
ポンポさんは、著名映画プロデューサーであった祖父のすべてを引き継いだ、凄腕映画プロデューサーである。というと、バリバリのビジネスマンやキャリアウーマンの姿を思い浮かべそうだが、ポンポさんは幼女のような風貌の若い女性である。そのギャップが、すごく違和感を感じさせる。だがその特異なキャラクターが、興味をひくところでもある。
ただ、この作品でメインとなっているは、ポンポさんのプロデューサーぶりではなく、彼女が見込んだ若い男性が、初監督作品を作ることである。
そのなかで、「映画を作る」、もっと言えば、「芸術作品を作る」とは、どういうことなのかという作品創作論が展開される。本当に、真正面からストレートにこのテーマを描き切っている。ポンポさんというキャラクターや題名から最初に受ける印象とは相当違う、ストイックな映画なのである。
王道の芸術創作論
この映画の中では、映画が作られている。プロデューサーであるポンポさんに、監督として抜擢された若者ジーンが主人公だ。彼は、見事に作品を撮りあげる。そして自ら編集作業を行う。そのときに行き詰ってしまい、はたと気がつく。これは誰のための映画なのかと。そしてそれを突き詰めていくと、どうしても足りないシーンがあると。
ここで創作における、2つの重要な要素が提示される。
一つは、作品は自分自身が投影されている私的なものであること。
もう一つは、作品を作り上げるためには、大事なものを捨て去らなくてはいけないこと。
私が芸術創作論を語るときのお決まりなのだが、これらは、トーマス・マンの「トニオ・クレエゲル」で語られた、「表現者は、現実世界の楽しみを捨てて、孤独と哀しみに生きる人種である」という王道の芸術論と同じことを示唆する。「トニオクレエゲル」を参考にしてこの映画が作られているのではないかと思えるほど重なっている。
作品は自分自身が投影されている私的なものである
まず一つ目について。
監督ジーンは、編集作業をしているうちに、何を言おうとしているのか、誰がこの映画を観たいと思うのかがわからなくなってきてしまう。編集作業には、あらゆる可能性があり、どんな方向にも持っていくことができる。あまりに選択肢が多く自由であるゆえに、中心となる柱を見失ってしまうことはよくわかる。
そのときジーンは、これは自分が見たかった映画であり、自分自身の苦しかった経験を解き放つ映画なのだという確信を得る。それしかないのである。
もしそれ以外の道を選ぼうとすると、あらゆる道が開けてしまう。自分のことではないから、多かれ少なかれ絵空事になって、薄まってしまう。自分を核にしなければ、徹底的に描くことはできないのだ。
それに気づいてジーンの編集作業は、一気に方向性が定まっていく。
作品を作り上げるためには、大事なものを捨て去らなくてはいけない
次に二つめについて。
編集の方向性を定めることができた監督ジーンは、作品の主人公である指揮者の苦しみを表すシーンが抜けていることに気がつく。それは芸術をとるか、家族との穏やかな幸せの時間をとるのかという選択を迫られるシーンであった。結局彼は、家族を捨て、芸術をとる。
表現する人は現実世界では幸せになれない。というか、現実で幸せになれない人が、表現者になるのである。
作品は自分自身のためにあるということに気がついたジーンならば、当然行きつく結論である。ジーン自身が、現実でうまくやることは望まず、映画の中だけに自分の居場所を見つけてきた人間だから。孤独と引き換えに、創作することを許された人間だから。
いやー、本当にすごい。ジーンは本物の芸術家だと思う。
現実世界でも創作の世界でも成功しようなんていうのは、嘘っぱちだ。そんな人は、偽物の表現者である。私は、実感としてそう思っている。
労働問題を孕む?
そんなふうに、私はこの映画に大満足だった。しかし、後日、この映画を観た人と話をする機会があった。その人は、映画製作に従事するという労働の観点から、この映画には感情移入できなかったと言うのだ。
それは、私がまったく気づかなかった視点だった。確かに、監督をするジーンは、夜も寝ないで編集作業に没頭する。疲れて倒れてしまっても、病室から抜け出して作品を完成させるために作業を続ける。映画の中でそれを賞賛しているわけではないが、感動的なシーンとして描かれている。
現実世界では、映画を作るのは仕事であり労働である。いくら良い作品を生み出すためと言っても、無茶苦茶な労働条件の中で働くことが賞賛されるのは問題がある。とくにこういった業界では、「好きなことをしているのだから我慢しろ」という風潮がある。それを容認・助長しかねないのは確かに問題がある。
しかし、一方で、先ほど述べたように、芸術創作というのは、もともとそういう性質のものであるというのも真実だと思う。自分のために、そして何かを犠牲にして、作品が生み出される。だから、芸術創作論という意味からすれば、この映画が語っていることは、本質をついていると私は思うのだ。
創作がお金儲けの手段になってしまう矛盾
その矛盾は、どうしようもないことなのだろうか。かなり根本的な話になってしまうが、もともと矛盾する二つのものがくっついてしまっていることが問題なのではないか。つまり、作品創作が仕事や産業になっていることが、問題を生じさせているのではないか。
創作が、金を稼ぐための労働して行われるなら、労働問題になることは避けられない。本来、芸術創作は、自由な精神で行われるべきもので、心を解き放つようなものである。それが、お金のために制約を受けたり、商売として失敗することが許されないものとして、納期や販売のプレッシャーに取りつかれたりするのは、芸術の本質に反する。
いつの日か幸せな創作論が生まれる日を
しかし、現代の資本主義社会では、そうなることが避けられない。お金と結びつかなければ、なにもできないのだから。だからと言ってそれでよいと言っているわけではない。
いつの日か、仕事や産業でない、各自の自由な精神の発露として芸術活動が行われるようになる日がきてほしい。完全にそうなることは無理であっても、できる限り、商売に縛られる要素が少なくなってほしい。
そうなったとき、芸術は未曽有の新たなステージに立つのではないか。もしかすると、トニオ・クレエゲル的な苦しみに満ちた創作論を超えた、もっと幸せな創作論が生まれるかもしれない。
しかし、現状の社会で、そうした幸せな創作論を唱える人は、胡散臭い。おそらく偽物である。そういう意味で、この映画は、問題を孕んだ今の創作活動の苦悩の真実を映し出しているように思う。
すばらしい芸術創作論だと思っていたこの作品が、他の人と話すことによって、矛盾と問題を体現した映画でもあることに気づかされた。
人の感想や意見を聞いてみることは大事だなと思った。そういう機会や場を探したり、できるだけ作っていきたいなと思う。
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