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ため息俳句 綿の花

 昨年の善光寺ご開帳の折に参拝した。
 宿は、いつものとおり門前の松屋旅館。
 旅館駐車場は、一寸離れたところにある、その途中に布団屋さんであろうか、店先に綿花の種が置いてあって、自由にいただけるのであった。
 綿の花など、夫婦共々見たことがなかったので、畑に播いてみようかと、半ば気まぐれのようで申し訳ないが、頂いてきた。
 そうして、今年実際に播いてみると、発芽数は少なめであったが、良く育ってくれている。
 今は、次々に咲き出した。
 綿花の花は、心持ちムクゲに似ているような印象である。
 店先から黙っていただいてきたのだが、その種に添付された説明書きに、綿花栽培が身近に見られなくなって、自分のような無知のものに知って置いてほしいというようなことが書かれていたような気がする。・・・、そのプリントをなくしてしまったもので、・・・。
 これから、どのような風に、あの綿毛をつけるのか、しっかり見てゆきたい。
 布団屋さん、よい機会をありがとう。
 
 さて、ネット上にこんな記述があった。

『新編武蔵国風土記稿』には、同国越生上野村聖天宮の「文亀二年(1502)辛未四月十九日」付の棟札の写が掲載されている。これによれば、聖天宮再興にあたって各関係者が紙と木綿を奉納している。「文亀二年」は元亀二年(1571)の誤写とされるが、紙と木綿はそれぞれ現地産とみられ、16世紀後半には武蔵で木綿生産が始まっていたと思われる。

木綿(武蔵) もめん - 戦国日本の津々浦々 ライト版 (hatenablog.com)

 さらに、こうとも。

生産された木綿は、越生の北東にある熊谷におかれた「宿」(取引所)で売買されたとみられる。天正八年(1580)十二月の「成田氏長印判状」で、「熊谷の町」における「木綿売買ノ宿」は長野喜三の所で行うことが命じられている。成田氏と同氏を傘下におく北条氏が、木綿流通の統制を行っていたことがうかがえる。

 近世に著された『慶長見聞集』では、大永元年(1521)の春に熊谷の市で「西国のもの」が木綿の種子を売買し、これがよく生育したため、これを知って翌年購入した相模三浦郡の人々によって三浦木綿の栽培が始まったとされる。この話が事実とすれば、「西国のもの」が種子を売りに来た背景に熊谷周辺の活発な木綿栽培があったと思われる。

同上

この情報によって、さらに興味がわいた。養蚕の盛んな明治時代以前、綿花の栽培されていたことを知った。クソ暑いこの地にも、やはり「歴史」はあるのだった。

かつては、こんな風景もあったかもしれない。

綿畠丈も繁るに夏赤城

熊谷の夏に親しき木綿かな