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#16 うそがきらいで顔がさびしい


 田辺聖子さんの『武玉川・とくとく清水 ー古川柳の世界ー』(岩波新書)で、『武玉川むたまがわ』を読む楽しさを知った。
 岩波新書の紹介の文によるとこうある。

『武玉川』とは、江戸の俳諧連歌の付句のなかから秀作を集めて編んだ付句集である。弟分とでも言うべき『柳多留』とは共通する面を持ちつつも独特の情味に富み、笑いもおっとりと品が良い。ご存じ田辺聖子さんがその中より佳句を選りすぐり、軽妙な筆致で読み解きながら・・・・(以下略)

 この紹介は、売らんかなの宣伝文ではなく、数ページ読み進めれば、納得の内容である。自分も、『柳多留』についてはわずかなものだが目にしてきたのが、『武玉川』の楽しさを知ったのはこの本のおかげである。

うそがきらいで顔がさびしい  武玉川

 とは、14音である。これは、前句が五七五である場合の、付句で七七となっている。連句では、前句が七七であるときは、付句は五七五となるので、『武玉川』では前句を省いて、付句ばかりを集めているから、五七五と七七の二通りの句になる。
 五七五、十七文字一句に親しんでいるので、七七を一句と読むことが、ちょっと違和感を感じるが、かえって新鮮にも感じる。七五七は、そのまま川柳に発展してゆくが、七七は俳諧の連歌の付句でその後はないのだろうか、それは自分にはわからない。
 としても、俳句が最短の詩形だとされているが、七七も句として成立するとしたら、こちらが一番短いものになるのだろうか。

 「うそがきらいで顔がさびしい」という句は、『武玉川』の読者の間では、人気があるそうだ。
 
 特殊詐欺のような犯罪的嘘は論外だが、嘘を上手につけるというのは、世渡り上手であるための一つの才能であるかもしれない。つい先だってのこの国の首相は、一部の人から「息を吐くように、噓をつく」などと言われていた。これが妥当とかどうかは別にして、「嘘」で人を操ってなんとも思わない輩は後を絶たない。しかし、どうしたものか、そういう人たちは、愛想もよく、人からも好かれるものである。
 反対に、馬鹿正直ということでないのだが、うまく嘘をついてまで承認欲求を満たそうなんて、金輪際できっこないという人もいる。そこまででもないとしても、お愛想替わりに心にもないお世辞口など使えませんという人は、少なくないのではないか、というより、自分もそんな傾向に人である。例外はたった一人、古女房には必要に応じてゴマをすることがある。
 とにかく、世にいう「口がうまい」というのは、程度の差はあれ嘘つき上手、嘘をつくことがヘイチャラというファクターが含まれていると、偏見かも知れないが、そう思うのだ。
 嘘をつけないというのは、内省的であるということで、どうしたって自意識が過剰であるから、自然と処世下手になる。気軽に友達をつくるなんて無理、そうなれば、独りぼっちになりがちというものだ。ついつい寂しげな顔になったりもしよう。まったくネー。
 それに、嘘をつかれるのがほんとに我慢できない、そういう人もいるなあ。大体、そんな話信じられないよと思いつつも、つべこべ言わずに聞き流すのが大人なんだろうが、・・・・。

 『武玉川』では、前句がなんであったかわからないのであるが、それでもちゃんと七七だけで伝わるものだ。川柳ならばもっと理詰めで落ちをつけるだろうが、これはやんわりと情緒的に「顔がさびしい」という。舌足らずのように見えて、しみじみと伝わってくる。

 『武玉川』の選者は慶紀逸(けい きいつ、元禄8年(1695) - 宝暦12年(1762))であるが、収録された句の作者は、不明である。