心中未遂

どうやら、隣人が、彼のアパートのドアの前で、生死の境を彷徨っている。呻き。ベチャベチャと体液混じりの嗚咽、嘔吐。どういうことか。とりあえず、隣人は、執着や不信や、その他様々な感情の具現たる暴力を、目一杯に体に受けて、そうしてアパートの前で倒れているらしい。僕はどうしたらいいかーーーぼんやり、考えてみる。どうしようもない。僕は僕で、死について考えていた。腕を切ったり爪を噛んだり薬を飲んだりする代わりに酒を飲んで、帰宅して玄関で靴も脱げず一歩も動けないでいる。スマホの充電は切れている。時間もわからない。アルコール無しで生きられないことはこの世界からの束縛で、身体中の水分が揮発してべったり床に張り付いた体で、死と似た情緒を思う。

願はくは、花の蜜を吸ったり、絵本の世界を夢見ていた無垢な頃に戻りたいよ。隣人の憎悪と苦痛の混じる暴言がどんどん弱々しくなっていく。今世界には僕と隣人しかいないみたいだ。隣人、お互い、なんで生きているんだろうね。今日で終わりにしませんか。ちょうど、ふたりでいることですし……

……先生は、本棚の分厚い絵本に手をかけ、ぱらぱらとめくりながら、そういう時代、私にもありました、と、絶対的な風格でもって微笑んだ。僕は先生に看取られたいと欲していた。そのためには先生に殺されないといけなかった。先生は、そんなことはしないことはわかっていた。しにたいな、ころされるなら先生がいいな、ねえねえ、なんて言って、光を含んだカーテンが白く僕の視界を塞いで、そしたら、

……まどろみかけたくらいの夢は、意味がわからない物が多い。さっきまで見ていたものも、夢だ。夢だ。この肉体と頭の重たさ、頭皮と顔のベタつき、口中に歯垢がザラつく不快、どうしたってこれが現実だとありありとわかってしまうクソみたいなリアル。ほんの少し差し込むだけでも朝だ、とわかる光が郵便受けから漏れている。異臭そのものみたいな僕は、身体中にまとわりつく不快という不快に耐えきれず起きあがった。そうだ、隣人は? 一応、髪を手で撫でつけつつ、玄関のドアを開けた。隣人はいなかった。血と体液の乾いた跡がコンクリートに染み付いていた。お互い、死にそびれましたね。おはようございます。

シャワーを浴びた。身体中にベタつく不快がみるみる洗い流される。風呂場から出て、キッチンで歯を磨き、水道水をガブガブ飲む。外から、隣人の部屋のドアが開く音がした。バシャ、バシャ、と地面に水をぶちまけているようだ。水は、すごい。汚れては洗い、汚れては洗い、幾度繰り返すのだろう。途方もない。クソみたいだ。隣人、生きていきましょうね。今日は、月曜。

#小説

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