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〝心の利き手〟に目を向けたら、自分を肯定してあげられた 〜自問自答×イメコン〜

タイトルの〝心の利き手〟という言い回しにピンときた方もいるかもしれませんが、先日MBTIの有資格者の方(認定ユーザー)からセッションを受けてきました。

ネットやSNSでなんとなく知っているつもりだったMBTIですが、同名のタイプ分類がある16Personalitiesと混同していたことが多く、私の中のMBTIの認識は9割ほど間違っていたことに気づきました(別物だよとは聞いていたけど、本当にまったくの別物だった)

私は心理機能の序列など、もっと深いところについては、詳しくありませんが、勘違いしていたこと・認識を改めたことなどをざっと挙げるとこんな感じ。

このnoteのメインは、「MBTIはこんなものだよ」「私はこのタイプだったよ」ではありません。

ワークの中で気づいた自分の指向や判断軸について、自分のイメコンや自問自答ファッションにおけるスタンスなどに紐付けながら、整理していこうと思います。

〝心の利き手〟って?

MBTIに触れると出会う〝心の利き手〟という表現。
心理学の三大巨匠の一人であるユングのタイプ論をベースに作られたMBTIは、「心には指向がある」というユングの仮説の元に成り立っています。その指向こそが、心の利き手

生活をするうえで、文字を書くとき、包丁を持つとき、「こっちの手を使って」と指定されなくても、すっと出てくる、優先的に使われる手。多くの方は反対の手も使えると思いますが、練習をしたり、意識して使うようになった人がほとんどだと思います。

ものごとの判断時など、人には自然と選択している心の指向、利き手がある
場合によっては無意識に逆手を使おうとしていることもあり、知らず知らずのうちにストレスに繋がることも。

無意識領域に目を向けることは、意識できる領域を広げるということ。心の意識化を図って、自己理解・他者理解を目指すのがMBTIの目的の一つです。

ペルソナとは?

まずはユングの心理学的類型論における、パーソナリティとキャラクターの説明から。

パーソナリティ→後天的に身につけた役割からくる性格
キャラクター→先天的に持って生まれた気質からくる性格
とのことです。

Personalityの語源は仮面を意味するPersona(ペルソナ)で、家庭内や職場、友人関係など生きていくうえでの役割によって、さまざまな性格を使い分けて生きている、とされています。場合によってはいつからその顔で生き始めたのか?本来の顔とは?がわからなくなることもあるようです。

役割を果たそうとするなかで、利き手とは逆の手を使っている、ということもありえます。MBTIで着目するのはキャラクターの部分です。
自問自答ファッションでいう〝セイロガン糖衣A〟の話にちょっと近いかも?


〜私の利き手の話〜
少し脱線しますが、私は両利きです。心の話ではないです。最近必要があって、調べてみたら両利きでした。
ペンとお箸は左、毛筆は右、刃物も右。ボールも基本右、スマホは左。持てと言われたらすっとその手が出てきます。

私はすっごく運動が苦手なのですが、「正しい利き手がわからない」が一つの要因なのでは?と、大学4年生のときに気づきました。
バッティングセンターで全然打てない私に、経験者の友人が「逆で構えてみて」と言うのでやってみると、すっと体が動いたのです。これまでも逆で構えていた、なんてことがたくさんあったんだと思います。

毛筆は筆の向きが綺麗に見えるように右、刃物はこの世のものは大抵が右利き用で左だと切りづらいから右。慣れた結果すっと右手が出るようになったけれど、それは社会に合わせていただけで、本来使いやすい手はきっと左なんだろうな。
スポーツは教えてくれる人が右利きで、その真似をすることが多かったから、スポーツは基本右構え(でも本来は逆の可能性が高い)。だから時間があくと自然な体の使い方がわからなくなるんだと思う。

どっちが利き手かわからない、さまざまな要因で逆側の手を使っていることもある。キャラクター・パーソナリティ理論も、MBTIの前提の話も、私にはとっても身近な感覚で、すっと入ってきました。

私の心の利き手・考え方

まだ心理機能の序列や、劣等機能まで理解を深めていないので、現時点の自認の話です。
私の中では、こんな感じかなあと思っています。

※MBTIをご存知の方は察するかもしれませんが、タイプベースで話すつもりはありません
※以下の話はあくまで「私はそう」というもので、このタイプはこう、とは言っていません
※ご自身のタイプを決めつけるのもご遠慮ください。もしも気になったら、ぜひセッションの受講を!

・心のエネルギーはいつも自分の外側に向いている
→一人でいるか否かにかかわらず注意は常に外を向いている。アウトプットは得意。人に共有するのも好き(※社交的か?の話はしていません)

・五感から得た具体的な情報や、事実に焦点を置きがち
・目で見ていないものに注意が向きがたい
・遠い先の未来や起こっていないことなど、「もしかしたら」という考えにあまりならない
・空想の世界に想いを巡らせたり、イメージを膨らませるのが苦手
・過去の経験と現在を重視しがち(過去の積み重ねが今)
・自分の経験したことがないものは選択肢から漏れがち

・「好き」や「〜したい」という判断軸がぱっと出てこない
・自分の中に「最適解」というものがある
・可能な限り、悩みや問題を解決したい
・他者からの強制や社会のルールに限らず、「〜するべき」「〜した方がいい」という判断軸が自分の中を占めている
・理論など、根拠が明らかなブレないものを重視
・前提条件がいつも気になる
・シチュエーションなど、場合わけしてものごとを考えがち
・「好きにしていいよ」「自由でいいよ」と言われると、逆に苦しい
・自分の中に行動や判断の根拠となる一貫した軸が欲しい

・ゴール設定をしていても、やりながら「こっちがいい」と判断すると、ゴール位置を変えてしまう
・ゴールはいつだって「暫定」のものなので、動かすことを悪いと思っていない
・むしろ手順を決めたり、目標を立てると、「守らなきゃいけない」とそれに制限される感じがして動きづらい
・「とりあえずやってみる」で動き出して、「気づいたら達成していた」となることが多い
・ゴールは常に変わるものであり、ゴールを目指すことが必ずしも「正」ではない

共感するものもあれば、ん?というものもあると思います。このまま進めます。


ファッションにおけるスタンス

・「好き」や「〜したい」が全面に出てくることはないが、たまに出てきてもすぐに冷める。気まぐれであることが多い
・昔からずっと着ている、昔から好き、みたいなものは、気まぐれに振り回されないので信用しがち
・気まぐれに左右されない「一貫した軸」に沿って服を選定したい

イメコンと私

イメコンにハマったのは、自分の「判断軸」に噛み合う、ぶれない軸が欲しかったから。いろいろと受診しながら、自分の軸に合うものをずっと探していた。

重視していたのは
・提案に常に一貫した軸、根拠があること
・理論を元に「好き」や「着たい」を考えられること
・診断士さんの発言に矛盾を感じないこと
・私の過去の悩みが解消されて、いいと思って選んだものが「なぜよかったのか」がすべて言語化できるようになること
・過去から現在までの自分の行動に対して「一貫した根拠」「ぶれない軸」を通せるようになること
・お洋服やアイテムをふわっとしたイメージではなく、デザインの一つ一つや素材、質感など、「目に見える事実」をベースに認識できるようになること

改めて挙げてみると、私の心の利き手(暫定、というのは以下では省略します)や、考え方に沿うものばかりです。

よく「好きやなりたいを大事に」と言われますが、私の中ではそれよりも「悩みが解消されること」「自分にとっての最適解を導くこと」が大事です。



イメコンのアナリストさんによく「そのままでお似合いです」と言われてきましたが、

私が無意識に選びとってきたこれらがなぜ似合って感じるのか?似たような服があって、こっちじゃなくてこっちがいいのはなぜか?

そこに導かれる理由や根拠が知りたい。

私にとって着ていて落ち着く、しっくりくる「最適解」の服がある。何を根拠に私はそれを「正解」だと判断しているのか?それがずっと知りたかった。

好きだなと思っても、着たいと思って買っても、次第に手が伸びなくなる服もあるのに、なんでもないただのリブニットが7年間もクローゼットにあってずっと活躍してくれて、へたって着られなくなるまで「着たい」と思える服がある。これらの服の共通点が知りたかった。

理由がわかれば、もしも理論で紐解けるなら、私にとってはそれを軸に服を選ぶのが「正解」

着たいという気持ち、好きだという感情よりも、私のクローゼットの中でずっと活躍してくれるのが、私がお洋服に求めるものだから。
私が抱えてきた「服はあるのに着る服がない」「なんだかしっくりこない」という悩み、問題を解決できることが、私が最も求めていることだから。

好きやなりたいはそのあと。私にとっては二の次。クローゼットの中にいつもいてくれる、この子がいてくれれば安心、頼もしい、ずっと着ていたい。そういう気持ちが「好き」に繋がっていく。
「好き」や「なりたい」から探すと、求めることとずれてしまう可能性の方が高い。そうすると、私はいつまで経っても「なりたい」姿になれない。

私にとってのイメコンは、過去から現在にかけての自分の「判断軸」に一本の軸を通してくれるもの。ここにたどり着くまでに30〜40万?は軽く費やしたけど(25万を越えてからは計算をやめた)、ここにたどり着けたから、私にとっては正解、ということにする。

イメコンは見る人によって・流派によって正解がちがうと言われたりもするけど、私にとっては「過去から現在にかけてのすべてを言語化できること」が正解だから、私にとっての正解はたった一つ。そこもブレない。

とはいえ、私は「自分の知らないこと」にはとても不寛容で、想像力が欠けるので、
ここに来るまでにいろんな診断や流派に出会って、アナリストさんに出会って「そういう考えもあるのか」「そこを見ているのか」「これをよしとする人がいるのか」をインプットできたのは、私にとってはプラスだった。


引き出しにたくさんの「ものの見方」が入っているのは、目に見えるもの・知っていること以外に意識が向きづらく、「想像力のない人」になってしまいがちな私にとって、すごく重要なことだったな、とポジティブに考えている。

自問自答ファッションとの出会い

ずっと気になっていた自問自答ファッションに触れたのは、「一年3セットの服で生きる 「制服化」という最高の方法」の発売告知ツイートがきっかけだった。
すぐ狭い世界に閉じこもる私は、たびたび外の世界に冒険に出かけている。偶然出会って、おもしろそうだし巣穴に持ち帰ってみた、みたいな感じ。

いままで私は、〈お洋服が好き=服をたくさん持っている〉〈いろいろな服を着回せる=お洒落〉だと漠然と思っていた。

自分が服をたくさん欲しているわけではないのに、お洋服に興味がないと思われるのが嫌で、お洋服が好きだとアピールするなら「たくさん服を持っている方がいい」と思っていた。

お洋服を愛している、スタイリストのあきやさんから出る「お洋服は愛せる数だけ持てばいい」の言葉は、私にはすごく響いて、「お洋服が好きな人もそうなんだ」という安心感は、見えない誰かからの抑圧から解放してくれた

自問自答してたらなんでもOK

自問自答ファッションのいいところは、あきやさんの巨木のような心の広さ、寛容さだと思う。
そもそも自問自答ファッションの定義は、お洋服を着るうえでそれぞれがしっかり自問自答して、それぞれにとって最善の選択をしていたらそれだけでOK。やり方も、結論も人それぞれ。自問自答してたらなんでもOK

なんて寛容なんでしょう。自問自答ファッションに、細かなハウツーがあったら、私はきっと早々に界隈から離れていた。
だって、推奨の方法やあきやさんが実際にやっていることはあるけど、私は何一つやっていない。

コンセプトも作ってないし、試着100回チャレンジもやっていない。演歌バッグも買っていなければ、予算計画も立てていないし、手を飾るワークもやっていないし、ムンプラどころか手帳も持っていない。そもそもPDCAを綺麗に回していない。断服式もしていなければ、月報も書いていない。

逆に何をしているんだ?という感じだけど、常に自問自答している。noteを書いてアウトプットをしている。それだけ。

あきやさんがいいって言うから、いいんだよ。そもそも上記は全部お洋服を選ぶための一つの方法だから、他の方法でお洋服が選べるなら、やらなくていいんだよ。

春服に向けてアップしなくてもいいんだよ、春服を欲しいと感じていないなら。

心の利き手を使おう

私が上記の全てを苦手に感じるのは、手順を決めると「それ通りにやらなきゃいけない」と感じるし、
一度気にし出してしまうと、気になって気になって、前提や道筋の整理をしないと一歩目を踏み出せなくなるから。


おまけに常に自分にとっての「ゴール」は動いているから、ゴール設定を最初にしようとすると、いつまで経っても動き出せない。

手順や計画は私にとって「守らなきゃいけない」もので、でも守れないのが苦しい。

むずかしいのが、周りから「作るだけ作って守らなくてもいい」と言われても、私の中の価値観が「〜しなきゃ」と感じてしまうところ。Pをすると、急にDができなくなる呪いにかかっている。



そして、五感から得た事実に焦点を当てるから、お洋服の細かな特徴やデザインを見るのは得意。でもそれをイメージの世界に持っていくのも、イメージの世界から現実世界の服に結びつけるのも苦手。
コンセプトを作るのは、私にとってものすごくものすごくむずかしい作業だ。

こうやって見るともしかしたら、どれも私の心の利き手では、上手に体を動かせない、むずかしいものばかりだったのかも?

MBTIを経て、むしろ「やらない方がいい」と開き直ってから、憑き物が落ちたかのように、変な義務感がすとんっと全部なくなった。
「やらなくて大丈夫だよ」と言われるよりも、「やらない方がいい」と言われた方が、私にとっては気が楽だ。これも私の心理的な特性。

×やらなくていい → ◎やらない方がいい

どうせ守れないし、守れないことに罪悪感を抱くなら、計画とか作らない方がいい。義務感に駆られるなら、試着チャレンジもやらない方がいい。動き出せなくなるなら、コンセプト設定もやらない方がいい。


私にとっての正解が「コンセプトを設定すること」や「試着を100回すること」ではなく、
「長く着られる・着たいと思えるお洋服だけで構成されたクローゼットを構築すること」なら、そのための判断軸が自分の中に明確にあるなら、それを目指すための行動をするべきだ。

私にとって優先される判断軸は、「好き」や「したい」ではない。フットワーク軽く動き回れる自由は好きだけど、ブレない一貫した判断軸に則って動くのも好き

私の中のブレない判断軸は、過去の経験から作り上げた自分のための攻略本みたいなもの。経験から導き出された「正解の選択肢」を悩まずに選択できるのが、私にとっての幸せ。

過去の経験や実績から導き出された、私にとっての「〜すべき」「〜した方がいい」を軸に動くのは、私からしたら何も不自由じゃない縛られているつもりもない

それは「好き」や「〜したい」と同様に尊重されるべきもので、私の自由意志で成り立つ私が作った私のためのハウツーだ。

「好き」や「〜したい」がすべてじゃない

「好き」は大事にすべき、「着たい」や「なりたい」を第一に考えた方がいい。世間一般的にはそう思われてるかもね。私もずっとそう思ってたよ。


でも、それは私の意志?本当にそれがいいと思ってる?
私の判断軸、心の利き手は無理してない?

ずっと無理していた。「好き」や「着たい」「なりたい」は、私の中の「すべき」「した方がいい」「正解」よりも尊いものだと思っていた。

でもそれは、その判断軸がすっと出てくる人のものだ。そして私はどうやら利き手がちがうみたい。


「好き」や「着たい」「なりたい」を、
私の中にある「すべき」「した方がいい」「最適解」よりも尊いものだと決めつけるのはやめよう。

私は私の心の利き手を大事にしよう。

私の判断軸に合うものから、「好き」や「着たい」「なりたい」を探そう。自分の判断軸に合うものは、嫌いなわけがないからね。

自分が似合うと判断して、迎え入れた服が、私の「好き」で「着たい」服だから。

自問自答ガールズ名乗っていい???

あきやさんが受け入れてくれる限りは、私は自問自答ガールズを名乗ろうと思う。

きっと私と似たような人がどこかにいると思うし、そういう人が行き詰まったときに、少しでも参考になったらうれしい。

自問自答のやり方は無限大だから、いろんな方法があるのはいいことなはず。そのサンプルの一つになりたい。

私のやり方は

① 私の過去の悩みが解消されて、いいと思って選んだものが「なぜいいのか」がすべて言語化できる、判断軸を手に入れる(→私は自分の感覚と噛み合ったSalon萠さんの理論を採用しています)

②①を満たす、「好き」や「なりたい」について自問自答をする

③①②を踏まえて、とにかく自分の理想に合う服を探しまくる(→ファッションビルや百貨店を片っ端から見たり、zozoやメルカリ、インスタなど暇さえあればみる。一回の検索で3000件とか出ても可能な限り全部見る)

④気に入ったものがあれば試着・試着ができない場合も、熟考したうえでGOが出せるなら買う

この①〜④を繰り返していたら、気づいたら理想のクローゼットや制服が完成していた、というのがみず乃流です。

書いてみたら、「Pができない代わりに全力でDCA!!!」みたいな感じで、ちょっと根性論っぽいですね……。

何はともあれ、人には人の自問自答

やり方すらも「その人らしさ」だと、あきやさんは肯定してくれると信じているので、自分の目標を達成できるやり方で、各々がファッションに向き合えますように!


ずーっとあった胸のつかえが取れたかも!!!
このnote、書けてよかった!!!


最後まで読んでいただきありがとうございました^^

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