社会性の練習(十九)

連休と健康診断を挟んでの四回の夜勤が終わり、明日からまた十日程日勤に戻る。体力的には夜勤のほうが楽だけど、精神的には日勤のほうが良い。

今日は昨日届いた『米川千嘉子歌集』を読み出して、歌集の編集をして、蔦屋書店で「アンソロジスト vol.4」を買って、その足で通所先のアフターサポートに行ってきた。

たまたまYou Tubeに上がっていて観たら40分近くあったカムバックコレクション。歌集的な?

過去二回の現代短歌社賞の応募では、なんとなく300首だから三つの章に分け、それも三分割して、みたいな分け方をしていて『コンクリートグレー』もある程度の塊ごとに章分けしていたのだけど、たまたま一番最後になった「コンクリートグレー」一連を読んで、これを冒頭に置いて、残りをABのパートに分けてみることにした。『悪友』と『予言』はどちらも冒頭に自信作を置いて、次に受賞作という共通点があることを『予言』の作者がツイートしているのを読んだ記憶があるが、連作の中で動かない連作がじゃこさんに声を掛けてもらったURの「緩く締めたりきつく締めたり」と笹井で最終に残った「兄の腹這い」のふたつなこともあり、冒頭は「コンクリートグレー」→「緩く締めたりきつく締めたり」→「兄の腹這い」の順で決定かな。

自分の中でのターニングポイントは正社員採用や休職よりも母親の精神疾患の再発と成人してから唯一のモテ期(振られたが)とが重なった2018年12月~2019年1月で、それから一年もしないうちにコロナ禍になった。発表作品だと、「稀風社の水辺」の120首がその渦中の作品なのだけど、個人的にはその後の「オフタイマーがもうすぐ切れる」の時期の歌に愛着や今後へのヒントがあるように感じ、それでいながら一回目の300首では前半の永井祐感で評が終わり、二回目の300首では前年との重複を避けるためすべて省いた経緯があり、この時期の歌を自分のキャリア全体の中できちんと位置付けたいというのが、歌集製作のひとつのモチベーション。

と、長々歌集語りをしてしまったが、歌集の本題はここから歌を実際に読んでもらうことなので(実際に歌を読むことの難しさをひしひしと最近感じているので)変に黙っている必要のない部分はどんどん書いておく。

「アンソロジスト」のアンソロジーは東直子が流石に面白かったが、文庫化はされたものの、わたしが短歌を始めたころ次の歌集が出ないことで有名だった荻原裕幸は二冊、穂村弘は一冊、平井弘の一冊まで出たのに、東直子は。一方で、もはや超歌集的な作風と言えることもあり、こういうかたちで読めるのがベストなのか。〈馬に乗れる人もいるかな通過駅の待合室のガラスの裡(うち)に〉〈がま口のパチンと閉まる音が好きフィクションの骨鳴らすみたいで〉……こうした歌のおもしろさを歌会的に評することは出来るが、もう少し大掴みに第三者に価値を伝達することは相当難しい。難しいが、今回読んでみて、永井祐より東直子や平岡直子のほうの文体によっぽど影響受けてるなとも思ったので、これは広く見れば自分の歌の読まれ方の問題にもなる。

「短歌テトラスロン」の競作にしてもそうだけど、どんどん短歌を語ることが難しくなっていて、わたしもうまく評せないことが増えてきた。とはいえ、好きな音楽をただただ何度も聴くように気になって読み終わらない(ぐらいがちょうど良いのかも)歌に何度も目を通せたらと思う。そのための媒体としての歌集ということなんだろう。〈天気雨の絵文字を押してから消してあこがれはときどきもどかしい/初谷むい〉

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