寺井奈緒美『アーのようなカー』往復評②

寺井奈緒美『アーのようなカー』往復評①|はしづめしほ|note(ノート)https://note.mu/ooeai/n/n0a33eff51390

往復評で〈往復〉のはなし 水沼朔太郎①

橋爪さん、こんにちは。まずは『アーのようなカー』の往復評という試みに参加してくれてありがとうございます。それから、先攻で書いてもらえたのもとても助かりました。おもしろい論点をいくつも提示してもらえたのでわたしの初回分はひとつひとつに応答していくかたちで成立しそうです。書いていく順番は適当なんですが、まず、わたしは『アーのようなカー』というタイトル自体についてはそこまで「ぶっとび比喩」だとは感じませんでした(もちろん、なんだこのタイトルは……とはなりましたが)。なんかでもおもしろかったのはこのタイトルに対応する歌は〈ここにいる 「カア」と鳴くから聞こえたら「アア」と鳴き返してくれないか/寺井奈緒美〉なんですよね。タイトルと歌のフレーズとの間にはずれがある。たとえば、「カア」をボケ、「アア」をツッコミ(もしくはなんらかの応答)と考えればこの歌は歌集全体のひとつの読み方を提示しているのかもしれない。なんだけど、タイトルは『アーのようなカー』。読み方を提示する歌だと、橋爪さんが最後に引用してくれたこの歌集のラストを飾る歌〈往復をすることの意味手ばなして壊れたファスナーのうつくしさ〉もそういったタイプの歌なのではないかと個人的には感じました。橋爪さんが先に提示してくれた読みから後出しで書くのでずるいと言えばずるいのですが、この歌は〈往復〉が大事なのではないでしょうか。完全にファスナーが閉まっている状態を0、ファスナーを1回開けて戻して閉めた状態を〈往復〉とすると〈壊れたファスナー〉は往復の途上の状態のことですよね。これって「カア」と鳴いたことと似ていませんか?あんまり雑なことを言いたくはないのだけど、いわゆる共感系の短歌というのは「カア」に対して「カア」と鳴き返すこと、ファスナーを開けて閉めることですよね。わかりにくかったらすみません。

次に「この歌集の歌、なんというか、おぼろげにサイコみがあるような、ちょっと大丈夫かなみたいな奇妙な歌(わたしはこれを「すっとん恐怖」、すっとんきょうと恐怖の複合造語――と名付けることにしました)と、世界やモノを肯定している温かい歌に分かれると思っていて。」に関してですが、橋爪さんはわりといつもかなり大胆に歌集のテーマを提示しますよね(穂村弘っぽい)。以前に月と600円で初谷むい『花は泡、そこにいたって会いたいよ』についてレポートしたときも「すっとん恐怖」のような造語は飛び出なかったけどキャッチ―かつ簡潔な言葉でまとめていたし、最近だと宇都宮敦『ピクニック』への「裏ピクニック」や先日Twitterで目にした三田三郎『もうちょっと生きる』への「世界虐」などが印象に残っています。わたし自身も何度か「とほほ」というワードで自分の歌を表現されたことがありましたが、言われてみればなるほどという感じでした。

最後に。橋爪さんが一番印象的だったというこの歌の話をします。

梅干しは女だろうか真ん中に赤い窪みを残して消えて/寺井奈緒美

正直なところわたしはあまりいい歌だとは思いませんでした。その理由はシンプルに〈女〉と〈赤い窪み〉とが近すぎるからです。ただ、橋爪さんはこの歌が真顔(ドヤ顔が見えない)だからいいのだということですよね。真顔/ドヤ顔の問題ってべつの言い方をすれば、手つき、作為性の問題であり作者と読者の問題ですよね。この歌集は比喩表現がほんとうにたくさん出てくる。で、この歌集の歌の善し悪しはほとんどここに掛かっているとも思うのだけど、比喩の出来?というのもまた受け手それぞれの尺度がある。その中でわたしはこの歌は比較的シンプルな構造の歌として読みました。〈車庫入れをするかのように巣に入る蟹の操縦席に乗りたい〉〈砂浜でさらわれていく唐揚げ棒のように少ない接点でした〉あたりがわたしは好みでしたが、驚きも込みでかつ〈梅干し〉の歌に近いやつだと〈寂しさの演出だったブランコに蒲鉾のような雪あたたかし〉の〈蒲鉾のような雪〉にかなりの衝撃がありました(この歌は〈あたたかし〉が一首というよりは歌集全体の文体から見てどうかというべつの問題もあるのだけど)。

とりあえずこんなところです。

寺井奈緒美『アーのようなカー』往復評③|はしづめしほ|note(ノート)https://note.mu/ooeai/n/n15599e8d83ac

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