社会性の練習(十三)

映像的な夢を見ることはまずないが、起きたら脳内で楽曲の一部が鳴っていることはわりとよくある。数年かけて、目よりも耳のほうが刺激をダイレクトに受け取ることを知った。今朝は羊文学「生活」の「きのうのぼくと今日のぼくとじゃおんなじじゃないけど きみにはわからない」というフレーズ+間奏5秒あたり。

年末にNewJeansの新曲「ditto」が配信されたのをきっかけにかんたんなクリスマスプレイリストを作った。STAYCがカバーしていたNIKI「Every Summertime」や自作の〈冬と夏とがオセロのように入れ替わるなかで笑顔はオールシーズン〉など冬と夏とはピークの二極なんだな、とすべての問題は自律神経だと実感した一年の終わり。

そんなことを思いつつ、二冊の歌集にかけてもらった葉ね文庫のクリスマス限定カバーを眺める。大森静佳『ヘクタール』(文藝春秋)には白を基調とした、永井亘『空間における殺人の再現』(現代短歌社)には赤を基調としたものをかけてもらった。

そういえば『ヘクタール』から〈両腕はロゴスを超えている太さふかぶかと波を搔ききらめきぬ〉の一首を引いている人をいまだに見ない。名歌なのに! 後者の歌集についてまだ何かを言えるだけの準備はないが、朗読の難しさ(声の無さ)、ということを思った。『ヘクタール』との関連だと「現代短歌」の書評で乾遥香が〈死がいちばんつよいなどという考えがわたしを殺すまでの青空〉について、「(……)、しかしこの結句の甘さはどうだ。」と書いていたのが印象に残ったが、この結句が成立すると作者が判断したのは歌の背景の白地も含んでのことだろう(この点は、同人誌などの製本により顕著で、『ヘクタール』という一冊の本は幸運なことにこの問題を免れているというか、「青空」の甘さは「現代短歌」誌上で見るほうがよりはっきりとわかる)。その点、『空間における……』は一見、地と図を反転したかのように見えるが、決してそうではなく、縦書き一首の印字された短歌(黒)が背景(白)に「青空」を見せることを無効化していると読んだ。

今年の笹井宏之賞応募作「配管と空気」50首を公開し、同時並行で、年内にここまでの歌を450首程にまとめた。幼少期の活字の原体験を、同じ集合住宅に住む同級生の家族が取っていた新聞を、数日単位で遅れて貰って読んだことで形成したこともあり、今後作るであろう歌集にも何らかのかたちで新聞性を反映させたいと考えている。

年始に、NewJeansが新曲「OMG」を発表。

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