社会性の練習(十五)
昨年末、29日30日あたりから精神的に不安定で、阪急梅田で551の豚まんをテイクアウトしたり、羊文学のライブDVDを黄昏時に流したり、休職前(ということは、働けてはいたが、しんどくなりつつあった時期)の行動を反復してしまっていて、個人的にけっこう危機的だったのだけど、有休含めた三連休明けの土曜日のすかすかの通勤電車で川谷絵音がadieuについて話している記事をたまたま目にし、帰りの同様にすかすかの車内で思い出して彼女の最新EPを聴いていたらそれで何かが吹っ切れて翌日の朝に数年ぶりに神戸三宮へ行けた。履いていく靴を茶色の革靴か白のスニーカーかで迷ったが、神戸は白だ、という記憶があってそれで間違っていなかった。コンクリート・グレー。そうか、あそこはメリケンパークだったか、と「神戸港」で認識していたエリアを歩き、MOSAICという「モール」で認識していたハーバーランドのフードコート的なエリアでドリアを食べた。お昼どきで混んでいたこともあり、はじめて一人で少し並びもした。
もう少し丁寧に流れを書くと、「文藝」批評特集、千葉雅也「エレクトリック」のあと、三連休の初日に「ぬばたま」6号の平(英之)さんの評論の引用で読んでからずっと気になっていた溝口彰子『BL進化論』を読み、翌日に同書内で紹介されていたBLを二冊 DMM.BOOKS で買って一日中読んでいた。とりわけ、よしながふみ『1限めはやる気の民法』が良く、前に、千葉雅也が薦めていたBLを読んだときにも感じたが、BLの登場人物の優しさはほんとうに優しい。このほとんど何も言えてない一文を、なんとか言語化すると、あらゆる規範が剥がれた状態で人を人として性愛も含めて想うというのは、こういうことだよな、ということを教えてくれる。常々、瀬戸夏子を理解するためのキーワードとして「ピュアネス(純粋性)」というワードを連想するが、いまはむしろ「フェアネス(対等性)」のほうが適切ではないか、とまで思い直した。ピュアネスだと「わたし」もしくは「あなた」のどちらかが透明性を纏ってしまう。
リアルタイムでは気付けなかったのだが、adieuの音楽を聴いたときに『BL進化論』で書かれていた「異性愛女性が現実の家父長制で負った傷の癒やしとしてのBL」やBLが「ファンタジー」である、という言説が急に腑に落ちた(わたしは異性愛男性であるけれど)。要するに、わたしは癒やされて、そのことによって神戸へ行くことが出来た。
遠回りして港まで歩いたねトイレとは覚悟を決める場所
神戸港のデザインされた便箋のアキレス腱を切ったのはぼく
ときめいているのは温度 艶めいているのは湿度 紫陽花が好き
ほんとうに好きなタイプは隠すもの ほとんど獅子座よりの乙女座
冬と夏とが笑顔のように入れ替わるなかで笑顔はオールシーズン
紅葉がこんなところにあることは百も承知で会話は弾む
ボールペンで書けないことは 満月よ シャープペンシルでも書けないね
首ばかり見てしまう冬の底にいて描きたい顔がまたひとつある
一月のアップルシナモンミルクティー どこまでもお口直しは続いていくよ
冷凍機能がなくて一年アイスクリームを冷やせなかった兄の婚約
『聖なるズー』を貪るように読んでいた 片想いの相手はいたっけ
代わる代わるにカールを食べてそれぞれのクラフトコーラ飲んで海の日
絵しりとりで描かれた毛虫をゲジゲジと思って描ききった塩昆布
ぐるぐるとお腹が鳴って一日の恋の終わりを知らせてくれる
わたしとして立ち上がれたと思ったら異性の恋人がほしくなる
繋いでいるのは手のはずなのに感触は足のかじかみ冬の神戸の
弟は恋する星座 心臓の収縮の縮みたいな顎よ
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