社会性の練習(十六)

昨晩、リムジンサービスの最新回でハニ(NewJeans)が出ているのをプレミアム配信の途中で知り、そこから見ていた。リムジンサービスといえば、レイ(IVE)が出ている回が大のお気に入りで、というか、わたしが好きなレイはこれまでも/これからもリムジンサービス上でのレイなのだけど、そのことをハニを見ていて思い出す。 わたしは自分ひとりで話を立ち上げることがほんとうに苦手で、基本的に何かに対する反応や想起というかたちでしか応えることができない。

いつも神崎川で済ませている川沿いの散歩を今日は淀川まで行ってみることにした。そうしたら、淀川へ行くことも、神戸へ行くことを淀川で済ませていたことに思い至る。朝から adieu のEPの2を聴いていて、冒頭の曲が良いなと思っていたら、作詞作曲の君島大空が1stアルバムを出した、というツイートを目にした。わたしは西田修大というギタリストの立ち位置(プレイのことはわかりません)が好きで、中村佳穂も三船雅也も西田修大という人込みで追っているような気がする。告知ツイートに「今までと これからの夕暮れに捧げます 聴いていただけたら幸いです」とあって、連想的に一冊を誰かに/何かに捧げるということについて思いを巡らす。連日のように出している「神戸」という地名は明らかに過去をイメージさせるが、今年の秋に予定されている兄の結婚式があるのも神戸で、それでいうなら、過去と紐付けられる地点をわたしは通勤のたびに歩いている。

歌集のタイトルがなかなか定まらないが、これも要するに並べられた歌の時間軸を総体としてどこに設定するか、ということが定まらないのだろう。そんなことを思いつつ、瀬戸夏子の第一歌集、第二歌集のあとがきに相当するふたつの文章に目を通していたら、我妻俊樹の瀬戸夏子歌集評の存在を思い出す。瀬戸夏子、永井祐、平岡直子、大森静佳、堂園昌彦、といった人々の第一歌集がわからないなりに歌集のタイトルについての参照項になり続けていて、そのせいで歌集のタイトルは、それなりに長くかつ一箇所本来は漢字表記のところをひらがなに開かなくてはならない、という思い込みが生まれている。

久しぶりにクリスマス気分になって、永井亘『空間における殺人の再現』を開いた。先の文章で我妻は、永井祐の第一歌集と瀬戸夏子の第二歌集は「「紙を見ろ」と言っている。」と書いている。永井亘の歌集の歌がTwitterで引用されるのを何度か見たが、そのたびに味わったことのない違和感を覚えている。それこそが歌集によるもので、これまでのところ、読みながらわたしは恐ろしいほど何も考えていない。それが歌を読む、歌集を読むということにおいて、どういうことなのかまだわからないけれど、歌集や同人誌を開くやいなやTwitterに打ち込もうと躍起になって指を動かしていた時期を思えば、ということを思う。

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