社会性の練習(十七)

通院。行きの車内で大森静佳『ヘクタール』を再読する。初読時は、『カミーユ』で突き詰めた方法論(対象に憑依というより乗り掛かるように詠い上げる)を自分自身に180℃回転させて向かっていない点を作歌的な後退として捉えたが、再読してみて事態はかなり複雑だと思うようになった。そう思ったきっかけはたまたま直前に目を通した我妻俊樹誌上歌集「足の踏み場、象の墓場」に堂園昌彦がよせた解説にあった「短歌そのものの二次創作性」の話で、解説の終盤で、堂園は寺山と穂村の歌を挙げながら彼らの歌にある既存の世界観を引用したかのような歌群において、「本当に「引用」をしているかは問題ではない。引用元は、もしかしたら彼らが歌を詠んだときに初めて出現したのかもしれないのだ。つまり、コピーのように振る舞うことは、オリジナルの存在の如何を問わない。」と説明する。

この話を大森の、歴史上で女性が置かれてきた立ち位置を引き受けて詠い上げた歌群に照らし合わせてみると、どうなるか。初読時は、大森(作者)の側が詠み込む対象を貪欲に取り込むように、つまり、『カミーユ』の延長線上で詠んでいる、と受け取っていた。しかし、繰り返すように、そのように読むには一首一首はあまりにも淡い(源氏物語を主題制作とした連作のタイトル「光らない」が初出時からずっと気になっている。ちなみに、アニメ「平家物語」テーマソングは羊文学「光るとき」)。そうしたときに、むしろ大森の側の「傷」(という言葉を使う妥当性は『ヘクタール』の「あとがき」に求めた)が全的に投影されきれない、そもそも「傷」とはオンオフのようにデジタルな変換機能を持たない、そのくぐもりこそが『ヘクタール』の歌群の奇妙な淡さに繋がっているように感じた。『カミーユ』を読んだわたしは大森の歌で、泣いているのは「もはや」作者ではなく、二重化した〈わたし〉、呼び掛けているのも、二重化した〈わたし〉から二重化した〈きみ〉や〈あなた〉と半ば機械的に読むようになってしまっていた。この「もはや」の部分に注意を向けること。とはいえ、これは何も作者の本音を探すいわゆるプライベートの詮索をしたいわけではない。そうではなく、歌集を読み進める中ですべてが参照と読むことで読み落としてしまう読後感(としか言えない感じ)があった、そのことに再読してみて気が付いた、ということ(以前に書いた一首評も参照してください)。

と言いつつ、〈紫木蓮ひゅうひゅうと鳴るくるしさの肺に三月、四月過ぎゆく〉の〈三月、四月〉はもはや一回性の〈三月、四月〉と言えないほどの透明性を纏っているのも事実で、わたしのでもあり、あなたのでもあり、が、あなたのではないならわたしのでもない、に裏返ってしまっているし、そうした実感が「あとがき」の「寒々とした表情」に繋がってくるのだろう(個人的には「文學界」巻頭表現で共作した山元彩香の写真を思い起こす)。それから、同時代性ということで、見逃せないのは、オリンピックとコロナ禍で、特にコロナ禍は歌集全体のトーンに無視できないぐらいの作用を与えている、と読んだ。だからこそ、参照先ではなく、オリンピックやコロナ禍のほうが無時間的に描かれている歌集の構成に対しては、やはり反対では? と思わざるを得なかった。

【初読時のツイート】
連作Aの歌が連作Bへ、など、全体的にコロナ禍的な編集意識というか、ここ数年のある種無時間的な心のありようを伝えるような歌集だと思う。一方で、その割には星野源や美空ひばり、オリンピックなど時期がはっきりわかる歌が散見される。こうした歌の方にこそⅡ章的な主題制作の眼差しが必要では。

醒めぎわの雷(らい)の短さ、みじかさは死後にはながさと呼ばれるはずで
/大森静佳『ヘクタール』
〈現在〉を〈死後〉のように歌い、〈死後〉を〈現在〉のように歌っているような歌集で、思わず「反対だよ!」と叫んでしまいました。

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