〈つつ〉なし短歌における接続と因果の問題ーー青松輝ららら♪一首評

歩道橋の最高地点に達したら神輿を運んでいるのが見えた/青松輝

青松輝、森慎太郎、丸田洋渡の三人によるネットプリント「第三滑走路」2号からの一首。なお、この連作「ワープを学ぶにあたって」は青松本人のブログでも読むことができる。
https://vetechu.hatenablog.com/entry/2018/12/25/084300

短歌を接続の助詞〈つつ〉を用いた短歌/用いない短歌に二分するといわゆる口語短歌と呼ばれるものは圧倒的に後者の割合が大きいだろう。ここで〈つつ〉を用いた短歌/用いない短歌という分割をそのままダイレクトに文語/口語に適用していないのは当然ながらいわゆる口語短歌でも〈つつ〉は使われているし反対に〈つつ〉を用いない文語短歌もたくさんあるからだ。

周知のように〈つつ〉は非常に便利な助詞である。なにかしら関係がありそうな二物を〈つつ〉はいい案配でつなげてくれる。しかしながら、わたしは短歌から〈つつ〉が消えてほしいと願っている。なぜか。〈つつ〉を使ってしまうことで失われる短歌の豊かさがあまりにも多いからだ。

〈つつ〉あり/〈つつ〉なしが=文語/口語ではないと断りつつもわたしの関心ははっきりと〈つつ〉なしの口語にある。それはシンプルに〈つつ〉なしでも文語には〈ぬ〉〈けり〉〈たり〉〈をり〉などがあるけれども口語にはそれがないからだ。口語短歌の字空けのレトリックや意識的なもしくは無自覚を装った終止形と連体形の混合は主に〈ぬ〉〈けり〉〈たり〉〈をり〉がないことによる、という文脈で語られてきたような印象があるけれど、そこには〈つつ〉の問題もあったはずだ。しかしながらこれまで〈つつ〉が槍玉に挙げられることは基本的になかったような気がする。なぜだろうか。最初の話に戻るけれどもいわゆる口語短歌でも〈つつ〉は使われ続けているからだ(〈なり〉のなんちゃって感とおなじニュアンスで〈つつ〉はみなさん使わないですよね?)……

……という、ざっくりとした文脈を共有してもらった上でいよいよ〈つつ〉なし短歌について考えてみたいのだが、引用歌ははるか上方へ、なのでもう一度引用しますね。

歩道橋の最高地点に達したら神輿を運んでいるのが見えた/青松輝

この歌を一読したときに感じたのは順序が反対ということだった。わたしの直感は〈神輿を運んでいるのが見えた〉場所こそが〈歩道橋の最高地点〉なのではないかと思ったしそここそが〈最高地点〉でなければならないとも思った。〈歩道橋の最高地点〉で見えるものが神という言葉があるにしても〈神輿〉なの?というがっかり感とわたしたちがまだ見ていない場所をあらかじめ〈最高地点〉と明かされてしまうひとつめとは違ったタイプのがっかり感。わたしが読んだ因果を優先したくなる。しかしながら、この歌は〈歩道橋の最高地点に達したら神輿を運んでいるのが見えた〉だ。〈つつ〉なし短歌の楽しみ方のマニュアルに歌の接続をそのまま楽しんでみる、というのがある。ただ、やはりこの歌はそのまま楽しめない作りになっている。読み手であるわたしだけでなく作者もほんとうは〈神輿を運んでいるのが見えた〉のが〈歩道橋の最高地点〉だった、という因果の歌を作りたかったのではないか?という可能性をどうしても消し去れないからだ。

どうしよう?と思ったところでどうしようもなくてこの歌を書いてあるまま書いてある因果で読むしかない。ところで、この歌が含まれる連作全体のタイトルは「ワープを学ぶにあたって」なのだけど(そもそもくらべるのも変な話だが)より「ワープを学」べているのは〈歩道橋の最高地点に達したら神輿を運んでいるのが見えた〉で間違いない。そう思いませんか?楽しめてないのにワープは学べてる歌。そしてその「ワープ」の鍵を握っていたものこそが〈ら〉だったのだ、というオチでららら♪一首評は終わります。

ららら♪いま僕は入り口でもあるし最前線でもありうる♪ららら♪/青松輝

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