現代語訳『梅松論』(中先代の乱 その5)
公家主体の現体制に不満を抱く人々が世に溢れ、道中、喜び勇んで将軍(足利尊氏)の軍に加わる者が後を絶たなかった。三河国の矢作(愛知県岡崎市)で直義朝臣(足利直義)の鎌倉軍と合流するとすぐさま陣を立て直し、関東へと向かった。
北条の軍勢は遠江国の橋本(静岡県湖西市)の要害に立て籠もって行く手を阻んでいたが、先陣の安保丹後守(光泰)が浜名湖に入って攻撃し、手傷を負いながらも敵を退けた。感激した将軍が勲功として、先に北条側に付いて討ち死にした安保左衛門入道道潭の旧領地を与えると、話を聞いた者たちは誰もが命を捨てる覚悟で勇敢に戦った。
この戦をはじめ、同国の小夜の中山(静岡県掛川市)、駿河国の高橋縄手(静岡県静岡市)・箱根山(神奈川県箱根町)・相模川(神奈川県平塚市)・片瀬川(境川、神奈川県藤沢市)から鎌倉に至るまで、敵に足止めされることなく七度の合戦にすべて打ち勝ち、八月十九日に鎌倉に攻め入った。
【 主な参考文献 】
新選日本古典文庫(三)『梅松論・源威集』(矢代和夫・加美宏 校注)、現代思潮新社
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