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何かになりたい

たぶん、本当は演劇をやりたかったんだと思う。

2017年、受験生だった頃。
志望していた大学の芸術祭で見た演劇サークルの上演を見て頭がガンガンに痛くなるほど泣いた。この大学に入った暁には絶対ここに入ろうと決めた。
入試が終わったその日の帰りのバスに、その劇の脚本を担当した学生さんが乗っていた時は運命だと思った。

「もし受かったら、きっとこのサークルに入ります」

と、唐突に話しかけてその人に宣言してしまうほど、私は憧れていたのだ。
舞台の上で自分ではない誰かになることを。

結果、私はその大学に落ちた。
だから演劇サークルに入ることもなかった。
今の大学に入ったことに後悔はない。ここにも演劇サークルはあった。だけど、どうしても入ることは出来なかった。家が遠いから帰りが遅くなるのが嫌だとか、体調が心配だとかそういう言い訳を並べつつ、本当はあの大学の、あの演劇サークルに入りたかった。

そうしてどこにも属さないまま、演劇への熱を燻らせたまま、何者にもなれないまま、大学4年になろうとしている。


私は何かと中途半端だ。
絵は描けるけど描ける範囲は限られていて、基本的に人のために描くことが出来ない。自己満足で描いた絵が一番よく描けて、その絵に評価がつけばラッキーなスタンスのインターネット絵描き。

勉強はお世辞にも出来るとは言えない。
こうして文章を書くのも好きだけど上手くはない。本を読む習慣も10代の頃よりすっかり廃れてしまって、文字を追うのが苦手になった。読みたくて買ったのに買って満足してしまうようになった。

大学も最初は映像志望だったから、高校生の頃は趣味で映像を作ったりしていたのだけど、その志望大学に落ちてからは課題以外で作らなくなった。

趣味だった創作活動も、結局滞ってしまって何一つ完結させてやれなかった。


だからこそ羨ましくて憎たらしい。
憧れた演劇サークルの学生たちが今もなお芝居をしていること。意欲的に創作をしていること。それが大々的ではなくとも誰かの目に止まっていること。

勇気をだして飛び込んで、やりたいことを実現させた同期。好きな人と結ばれたあの子。書いた文章でお金をもらった友人。

当の本人たちにとってはなんてことの無い日常の中の、少しだけ特別なワンシーンなのかもしれない。
でも私にとっては美術館に飾られた絵のように届かない世界に見える。私は大多数の中のひとりに過ぎなくて、いつも誰かの後ろにいる気がする。いつも埋もれているように思う。

ああ、喜ばしくて羨ましくて妬ましくて憎たらしい。私もそうなりたい。大多数の中で埋もれていたとしても、それでもいいから1回くらい輝きたい。自分のために何かに飛び込む勇気が欲しい。


私は何者でもないから、何かになりたい。

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