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【演劇】『滅多滅多』を観ました【感想の類】

滅多滅多 by 柿喰う客 @本多劇場

※画像の掲載は公式が許可しているため行なっています。


鮮烈な色彩と蠱惑的なフレーズ。どこからつっこめばいいのか分からない登場人物達。初見は「いかにも下北演劇っぽいなあ」と感じるだろうが、柿喰う客を知る者にとってはいつもの事だ。

本編を見て感ずべきところは沢山あったが、観劇後に思い出される事はあまりに多く…。今回はシンプルにネタバレなしで所感を書く。

役者は総勢20名。登場人物はオトナ・コドモ・フシギの3パートに分かれ、それぞれが埋もれぬ個性を75分間で余すところなく発揮している。あまり主人公という立ち位置のキャラクターを見せないのがこの劇団の特徴でもあるが、今回も様々な登場人物の思考が入り乱れる中、徐々に注目すべきキャラクターが定まってくる構成だ。ストーリーは先入観無しで観劇して体感して欲しいので割愛。

さて、上記とHPの粗筋から見て取れるように、舞台はとある小学校にスポットが当てられる。この禍々しいビジュアルでピュアな青春物語を想像する人はまずいないだろう。

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もはや遺影

この芝居を観て、心地いい気分になる人はいない。というか、柿喰う客の舞台は基本的にみんなそうだ。い~い具合の後味を残して幕が降りる。

…が。今回については、恐らく誰もが逃れる事の出来ない、恐怖のノスタルジーを心の引き出しから引きずり出されることになる。何なら、閲覧注意くらいまではある。ずっと封じ込めていた云十年前の記憶の引き出しの錠前をぶっ壊され、ぼろぼろになった、もしくは誰の手も触れずにぴかぴかのまま残るおぞましい"それ"を、時空を超えて目の前に突き出される心地。

細い体躯に重い花飾りをこしらえ、6年間の楽しかった、或いは大変だった"共通の思い出"を、声を揃えて唱えた卒業式。誰にとっても真実でないその儀式を経ても誤魔化されなかった"それ"は、全員にとって全く異なる思い出でありながら、誰しもが抱える苦い記憶になっている。ある人にとっては思春期の生々しい味わい、またある人にとっては奥歯がすり減るような痛々しい肉体の記録、またある人にとっては、誰にも届けることが出来なかった切なく悲しい心の痛みである。

小学校という怪物

小学校というのはとても異質な場所だ。6年間、同じ場所で過ごさなければならないというのは、義務としては最も長い時間である。そして、ここでの経験は後の人生に一番と言っていいくらい大きな影響を与えるが、当時はそれに気付かないまま6年間を過ごすことになる。当作品では、以下のような大人になっても逃れられないあんなメモリーこんなメモリーが思い出されるのだ。

・学校というと、特筆すべき存在は、親兄弟やご近所さんとも違う“先生”という人達だろう。当時の子ども達に最も影響力を与える"強者"である。学校では先生の言う事は絶対だし、畏怖はしなくとも、学校の外で先生を見かけると、何だか、いけないものを見てしまったような気まずさを感じる。何故か決していい人ばかりではないこともある(もちろんいい人ばかりであって欲しい)。完璧ではなく不完全、それでも模範的な教育者という立場で居続けることは先生にとっては凄まじいプレッシャーだろう。世の中を見ていると、それに耐えながら一生懸命子どものことを考えるのがどれだけ難しいことか分かる。そして時に、生徒は“圧倒的弱者”になり得ることもあった。

・ピュアな子どもにとって、恐怖は最大の動機。恐れ知らずの危険な遊びで命を落とすのは、考えなしなのではなく、経験として知らないから。田舎育ちが自然遊びで体に感覚を染み込ませるように、恐怖やトラウマという体験を経て、子どもの精神は成長していく。高校生にもなると学校の七不思議なんて鼻で笑われて終わりだが、子どもにとってはたくましい想像力から生まれた"実在"だ。恐る恐る階段を上がれば時に段数を数え間違え、一人トイレですすり泣けば、隣の個室から誰かに覗かれていると感じる。それは放課後だけではなく、日常につきまとう嫌~な要素だ。友達が、好きな子が、家族が…と、頭の中で膨らむあらゆる想像と関連付けられる。

・学校で一人きりで過ごしたくても過ごせないのは、社会性やコミュニケーション能力を身に付けるための土台としての意味がある、と、小学生に理解できようか。思春期を迎えて身体が発達していく現実にこれまでの泥臭い青春が滲んでいく感覚は、思い出したくない。それでも、小学校という空間に閉じ込められている以上は、他者の存在によってまざまざとそれらが浮かび上がる。全てが仕方なく起こり得ることで、発生を防ぐことはかなわない。


物語の登場人物が3パートに分かれているのは、同じ空間に存在していても全く異なる者どもなのだという意味を含む。

小学生はピュア故に残酷である。そしてその好奇心と行動力から、時に大人よりも現実を深く知ることもある。大人の言いなりになる無垢な生き物などでは決してないのだ。毎日のように友達と一緒に勉強したり遊んだりしているだけの空間だからこそ、誰かの隠し事や秘密の気配をすぐ近くに感じてしまう。そして、一度それを知ってしまったら、"知らない"には戻れない。それを考えれば、6年という時間はあまりに長く、重い。


…と、さもこれが全員にとって当たり前の経験のように書いたが、実際はそんなこともないと思う。それでも世の中は当たり前のように違和感だらけだと思っていて、大人と子どもが、模範的教育者と教育を受ける者として同じハコの中で共存している様は時折もの凄く不気味だし、それこそ七不思議のような漫然とした、小学校という特有の空間に居付く姿の見えない怪物の存在を感じる。誰にとっても貴重な6年間は、色々な子ども・大人・地域や家庭が雑多に詰め込まれた箱庭。そういった禍々しい全ての色彩がマーブル状に渦を巻き、その淀みから抜け出せるようになるのはもっと大人になってからの話だ。

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