自民総裁選という出来レース

割引あり

自民総裁選はどうせ出来レースなのだから、2秒で終わらせてほしいし、メディアもこれについて批判的な文脈以外で取り上げる必要なんてない。というか、メディアはいかにこれが茶番であるかという批判をしっかりしてほしい。
この世界にはいまこの瞬間にも死んでしまった人がいて、死んでいる人がいて、死にそうな人がいて、死に至る凄惨な事態に巻き込まれそうになっている人がいて、死が忍び寄る地獄の中でそれでも生きようとしている人がいるにもかかわらず、国民が投票することすらできない出来レースの総裁選にさいている時間なんてわたしたちには1秒もないですよ。日本は「いちおう」は代議制民主主義のかたちを表向きとっているのだから、政治を私物化しないでほしい。

といったところで、徒労感と虚無感に襲われるだけではある。
冨樫義博の『幽☆遊☆白書』(単行本は全19巻、1991~1994年)では、戸愚呂(とぐろ)弟(戸愚呂兄弟の弟のほうという意味であって、「弟」がファーストネームというわけではない)という中盤のラスボス(←語義矛盾ぎみ)がいるのだけれど、彼は主人公の浦飯幽助の能力をかっているのに幽助がなかなか自分の期待するレベルまで上がってこないことに嫌気がさして、「おまえもしかしてまだ」「自分が死なないとでも思ってるんじゃないかね?」と幽助を煽る(12巻、1993年、125ページ)。しかしそれでも戸愚呂弟が求める「本気」にはならない幽助の生存者バイアスを打ち砕くために、彼は幽助の仲間のひとりである桑原和真を「殺す」。かくして「覚醒」した幽助と戸愚呂弟の戦いは次なるレベルに上がっていく。
なにかとクリティカルな状況を見るとき、わたしはしばしばこのエピソードを思い出す。べつに、「政治家はわたしたち市民のことを仲間だなんて思っていない。だから人がいくら死んだところで涼しい顔で富と権力にすがっているのだ」といった主張をしたいわけではまったくない。多くの市民が政治家を仲間だとは思えないように、政治家も市民のことを仲間とは思えないだろうし、「仲間だから救う」という考えは排外主義とつねに隣り合わせにあるため、諸手を挙げて唱えられる理念かといえば、はなはだ疑問でもある。ただ、「この人たちはあと何人死んだら変わってくれるのだろう」と素朴に思う。もちろん、「この人たちは~」というのは言葉の綾であって、わたしたちが設定すべき問いはそんなものではない。かといって、「どうすれば現状の政治が変わるのか」といったどストレートな問いの前では、少なくともわたしは心がくじけてしまっていろいろしんどい。公文書の改ざんが野放しにされているような状況では、三権分立が機能していない状態では、途方に暮れるばかり。

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