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生い立ちパズル⑩ piece:わたしのオルガンと和傘

中学時代は 1年の時から バスケに夢中だったので 家庭で いろんなことがある中でも まだ 集中できることがあることに 救われた部分はあると思います。
 朝練も 早朝から 参加して、放課後も 毎日 19時まで。身体を鍛えてました。

 バスケ部は 新入部員が多くて 30人くらいいました。
そこで 恐らく 人数減らすためだったのだろうと思いますが、部活動、初日で 校庭外周を 30周くらい走らされました。

翌日、登校するのに 筋肉痛が酷くて 歩けず、近所に 今でも仲良くしている同級生がいたのですが、その友達もバスケ部でした。
その子と、ふたり 壊れかけのロボットのように 一歩、歩いては止まり、また 数歩 頑張って歩いては止まり、痛すぎて 笑いながら 登校した覚えがあります。

その日に 部員は半数に減っていました。

わたしは 辞めない、と決めていました。



それでも 時々 やはり謎の熱は出ます。

体力は 少しずつ できて 小学生の頃は 扁桃腺の高熱も よく出てましたが、
中学生になると、扁桃腺は落ち着いてきます。

謎の熱は、
きっと 精神的なものだったり、
あとは 本当に 何かよくないものを 吸い取った時なのかなと思います。

一度、同級生の女の子に わりと強引に誘われて その子の家に遊びに行きました。
彼女は早口でした。 内容をよく覚えていないのですが、嬉しそうに話してくれていたのは 覚えています。

 夜も遅くなって 帰る時間になった頃には もう既に 微熱っぽかったです。
その夜 しっかり38度の発熱。

大人になってからも 何度かあったのですが、相手は わたしと話した後 すっきりするらしいんです。わたしは わけわからないまま 聞いてるだけなんですが。

これも、後にいろんな人に言われて ようやくわかったのですが 『憑依体質』の性質らしく、人の念を受けやすいらしい。

なんらか疲れや悲しみや、どちらかというと 『負の念』を貰って 吸収してるんだと思います。知らず知らずに。
(みえないものなので断言はできません)

その頃はわかりませんでした。
それは 何度も繰り返されました。
そのことで悩んでいたわけでもないので 解決することもないままでした。

https://note.com/mizoochi_type/n/nb0d5b6b41d93

前回の『生い立ちパズル』⑨です。

毎週金曜日 19時に投稿しています。
 マガジンにまとめております。




この頃、とても悲しかったのは オルガンと、あとひとつ幼少期から 大切にしていた朱色の子供用和傘、そのふたつを手放さなければいけなくなったことです。



母は、わたしの返事を聞くこともなく、
オルガンも、朱色の和傘も、
妹にあげたい、ということでした。


「いらんやろ?もう大きいのに」
と 軽く言います。
いきなり来て いきなり好きなこと言い放って いきなりわたしから大切なものを奪っていく。

「え…」
と戸惑うと

「もう使わんやん(笑)」
と笑う。

なんで笑うんだろう。
もう大きいから要らないだろう、と思っている。
使わなくても 大切に側に置いておきたいものもあるのではないか。
お母さんも あったでしょう?

 要るって 言ったら どうしたんだろうな。
駄々をこねたら わたしの周りの大人は
どうしたんだろう。

ふと思う。

でも、やっぱり わたしは、わたしでよかった。
そうしないわたしでよかった。
もちろん、駄々をこねるわたしだったとしても わたしはわたしの光を 見失わず 右へ左へ、蔓を伸ばしてきたはずです。



わたしが ひとりだった時 雨の音を拾って いっしょに時間を過ごしたオルガン。
買ってもらってから ずっとお気に入りで 大切にしていた明るい赤い色の和傘。開く時 少し重たいけど なんだか好きな重たさ。

そのふたつを 一気に持っていかれた時は寂しかったです。
まだ、笑うことしかできていなかった。
悲しい時に より一層、笑う。


 友達にも家庭事情は 話していなかった。誰かに聞いてもらいたくなることもあったた気もするけど、話そうとすると 口が糸で縫われたようになります。口が開かない。
まず、それよりも話そうという頭がない。話さなくてもいいものなんだと思っていました。


祖父母の家に 暗い暗い押し入れがあったのだけど そこに入って たまに泣く。


高校生になって 仲良くなった小学生時代の同級生は わたしのそういう環境はまったく知らず、
病気がちで 学校でも 滅多に会えなくて、
だけど たまに見かけると、いつも 付けてるものとか 靴下とかのセンスがよくて(母が好きだったので)
『お嬢様』という印象だったそうです。
話をしてみて 全然違ったと 笑われましたけど。性格はきっと その印象の真逆だと思います。


一方、バスケ部では わたしは 身体の不調で 欠席が多いため、レギュラーにはなれなかったのですが、顧問に
「おまえはボール感が人より優れている。恐らく おまえが一番うまくなる」
と、みんなの前で言われます。

目立つのは苦手です。
でもバスケは好きだから 褒められて 素直に嬉しい。

ただ よく休むので、顧問は わたしにミッションを与えたのです。
特別に ひとりで どのポジションでも いつでもシュートが決めれるように 個別練習させられました。

楽しかったです。

ボール回しも ノールックパスも、切り込んでいくドリブルシュートも、バックシュートも。
何より 相手がパスする時 ボールがゆっくりに見える。ゾーンによく入る。ドリブルカットも得意だった。
気持ちが良かった。単純にバスケがうまくなることを楽しみました。

そのバスケで 高校の推薦も来ます。

だけど、それを蹴りました。
そこを蹴って なんの魅力もない学校を選びます。
大人になってから もっとバスケしたかったなぁ、と 何度か思いましたが 自分で選んだことです。

あの頃の わたしは それどころではなかったから 真面目に 将来を決める余裕がなかったのかもしれません。
そして、相談するという頭が わたしにはなかったです。

目の前の苦しい、とか そういうものは 誰かに話して たすけてもらうことではないという頭でいました。


これも わたしの選択してきた分岐点。
これがなければ 今の我が子たちにも 出会えなかったのだろうな。

中学時代は しょっ中、義母と いろんなことで揉めたけど バスケや犬たち、自然たちのおかげで まだ大丈夫。
自分のことを 人に話せなくても わたしは強い。


母と暮らしていた義父は わたしの父の知り合いでもあるらしく、実父に聞かれても 母のことを言わないように、と周りの大人に 口止めされていました。
そういうこともあってなのか、わたしは 自分のことを どんどん話せなくなっていくんです。

 大人は 子供に話しちゃだめなんてこと つくってはいけません。
そう思います。


これを書く時は この時の景色に 戻ります。たまに 戻れない時もありますが。
 だけど 感傷に浸るということはありません。
 あの頃の自分に 良くがんばったね、と いう気持ちにはなります。
なので、まだ ここから抜け出せてないわけではないです。


 今回はなんだか うまく戻れませんでした(笑)







                                            𝓽𝓸 𝓫𝓮 𝓬𝓸𝓷𝓽𝓲𝓷𝓾𝓮𝓭

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