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生い立ちパズル ⑪ piece:中学生時代

中学生の頃は 前回 書いたように 心なのか 脳内なのか、
はたまた 魂がそうしたのか よくわかりませんが、
帰る場所が 自分自身の中に できました。

これは 今 繋げると、ですが

幼い頃、孤独感を抱いていた時
飼い犬の柴犬ジョニーが 連れ出してくれた山を探索していた空気感に似ています。

もっと 自分の中にできた場所の方が 落ち着く感じはありますけど。

怪我もしないし、
誰もいないので 嫌な思いもしないし、
縛ることもなく
受け入れてくれて
ほっとします。


中学時代は バスケ部で 顧問に
「秘密兵器になれ」
と言われ そんな役をもらえるなんて わたしが燃えないわけないですし、
気を紛らせる場所が 増えたので まだ少しましだった気もします。

家の中では いろいろなことが 相変わらずありました。

実父、実母の家 それぞれに 時折 呼ばれるのですが どちらの家も 落ち着きません。
気を使うことしかしていませんでした。

実父の家では
父は わたしを呼んでも いっしょに遊びに行く、とかはなく 仕事前に 顔を見せに来いという感じです。

父が 仕事に出た後は 義母とふたり。
 義母は 常に 自身の姪っ子たちが どれだけ素晴らしいか、それに比べて どれほど わたしが劣っているかの話を 延々と話します。早口で言葉数の多い人。

不愉快です。
不愉快ですけど 会う度だったので 「嫌な音」にしか聞こえなくなってきます。

なので、姪っ子さんの話は 全然 覚えていません。

義母からは なんだか それ以外の感情の煙も感じていました。
良くない感情の色が見えます。
重みも感じます。
 大人になってから知りましたが、
義母は 子供が産めなかったようです。

まあ、だからと言って
わたしに 嫌がらせしたり 嫌味を言うことの正当な理由にはならないと思っています。

わたしが 義母の立場なら、と 考えたこともありますが、どうしたって 義母とは違う選択しか 頭に浮かばなかったです。


実母の家では
義父は わたしにも普通に接してくれてはいましたが わたしがどうも そこには入れませんでした。

弟妹たち三人は 新築の大きな家で それぞれの部屋を持っていました。

わたしは ずっと  外に話し声が全部聞こえるような祖父母の家で ずっと暮らしていて わたしも部屋がほしいと思っていたのもあり、少しひがんでいたのかな。

いいなぁ、と ひたすら羨ましがっていました。


実母の気持ちも 大人になってから 考えてみましたが 全くわかりませんでした。
でも 言葉にするのが 下手な人だったのかもしれないな、と 思ったりもします。

それでも わたしは 愛を感じたことがなかったので、 ただ それが わたしの事実です。

父や母や 周りの大人たちを
もしかしたら、いい人かもしれないと 思うのも やめました。
感じたままを受け取りつつ、
それでいて そういうこともあるという なんとなくでいいのだと思います。

その理由なんてどうでもいい。
ここから先 自分がどういうことを選んでいけるか、それに引きずられず、自分自身で どうたのしんでいくか、
それを考える時 ふとそういった経験を 交えて考えて いろんな状況を 想像できる人になれたら それでいい。


そして、
こぼれ話で話した、隣りの家のおじさん。
わたしが中学生になった頃から 庭で 爆音で浪花節か何かを 日中、ずっと流していました。

もう、うるさいなんてもんじゃありません。
テレビも聞こえないし、
家の会話もできないし、
 勉強なんてできません。
好きなことにも、集中が まず、できませんでした。

いらいらしていました。
それでなくても 音にも敏感だったので 頭がおかしくなるかと思うほど 苦痛でした。
今でこそ、そういう騒音も 厳しく取り締まれるのだろうけど。
迷惑かける人は
迷惑をかけていることを 理解できないのか、それとも 迷惑をかけることをわかっていて たのしんでいるのか わからないけど 我儘ですし、なかなか 自身の行動を振り返ることもないし 直すこともないです。

三年間 続いたように思います。
浪花節が嫌いになりました。
浪花節は悪くないのに。


あと 学校では
わたしは 人見知りで 目立つのが苦手だったので なるべくおとなしくしているつもりなのですが 何かと目立ってしまいます。

嫌で仕方がなかったのも覚えています。

 中学生の頃は
中距離走しかなかったのですが、
何故か マラソンで 毎回 一位になります。
頑張ってるわけでもありません。
走っていると だんだん 前を走っていた人が 後ろに下がっていきます。 そういう感じです。

あれ?なんで?

と思いながら 黙々と走っていると 一位になってるんです。

実は、このマラソンの時も
 走り出した時点では 呼吸が合わなくて きついのですが、
負けたくないとかの気持ちもないですし、
その呼吸が合うところを 見つけていく方法を覚えました。

そのうち 走る呼吸のリズムを掴めます。

走り始めて
きつい、きつい、と思っていると ふと 瞬間 すっと楽になる時が来るんです。
ランナーズハイなのかなぁ、と思います。

 『きつい』から
今度は 『気持ちいい』になります。

そうすると 走りながら また瞑想に近いことやります。
走ることと関係ないことが思い浮かんで 笑ってしまったりします。

周りの声も何も聞こえないし、見えない。
ときどき 声援が聞こえますが
遠くに聞こえます。

自身の中で 向き合う時間になります。

よく陸上大会にも出されたのですが
 郡大会で一位でした。
雨が降ったあとの 大きな水溜まりが コース内にあるのを 走りながら見つけて

 水溜まり 避けた方がいいのかな。
 避けたら 先生に怒られそうだな、
どうしようかな、と 余裕もあります。

先に走ってる人が 入って走っていったので

あ、やっぱ避けたらいけないんだ、と 思ったりします。


その時も 一位だったのですが
顧問が言うには
わたしは 距離が長ければ長いほど 結果出せるらしい。
 でも 長距離は やりたくない。

やりたくないけど 何故か一位になることで 陸上大会にも出されたり それの練習をしたり、と なんとなくやらされるのですが

そんなこともなければ 率先して 長距離選手になりたいとは思わなかったと思うので それも感謝しています。

 走っている途中の あの呼吸が合ういっしゅんの気持ちよさを知れたんですから。


これも ジョニーのおかげかな、と思ったりすることがあります。


長距離の陸上大会の練習で 驚いたこともありました。
もうひとり 選ばれていた女の子がいました。
その子との練習で 先生が時間を計る時、
 いっしょに走っていて
まだ 一周あるのに 
「もうきついから やめたい。いっしょにやめよう」
と 話しかけてきます。

なんにも考えていないわたしは
「いいよ」
と にこっと笑って ゴール近くで スピードをゆるめて やめます。

すると、その子、
止まらずに 走っていくんです。
びっくりしました。

え?


慌てて わたしも また走ります。
抜きました。
ここは 嘘が悔しかったのと そういうのが 大嫌いなので こういう時は 負けたくないと思います。

終わった後 その子は 普通の顔してるんです。
わたしの頭にはなかった行動です。

中学生時代は 夏休みになると
金比羅山が近いので
毎朝 6時に集合させられ、
石段マラソンを みんなやらされます。
その時も その子は 同じことを言ってきました。

その時は 断りました。

ひとりで走る方が楽です。



こうして いろんな人がいることも 知っていきます。


あと、不思議なことはたくさんあるのですが
夢で見たことが そのまま現実で起きるということも 体験します。
他愛ない数学の時間でした。

なんとなく

あ。この風景… 夢で見た。次 先生が振り返って 〇〇くんが当てられる、

と夢を思い出していたら
夢のまんま 〇〇くんが当てられました。
予知夢を見ました。

ひとりで なんとも言えない気持ちになり、授業中 ずっと おかしな気持ちになっていました。

最後に、
父は わたしが中学生になった頃、
 祖母を呼び出しました。

わたしを引き取りたいと 義母を通じて 申し出てきて、その話をしたかったようです。
少し心配で わたしも同席しました。

父は 
わたしを引き取りたいと 話したと思います。
言葉を覚えていません。

祖母はどうしたかったのか、よくわかりませんが 
わたしから見て 祖母もまた 孤独なように映っていたので ひとりにできないと思いました。

なので
わたしが 父のところへは来れないと 話しました。

あんなに 強いイメージの父が
その時 涙を見せました。

 驚きました。

後にも先にも
 父が泣く姿は わたしの前では その時だけでした。

いまは 父と話してみたかったなぁ、という思いもあるので あの涙の父に 心の中で
話しかけたりします。
母が迎えに来ることはなかったけど 父は引き取ろうとしてくれたのです。

それでも 愛は感じないのです。
わたしが壊れていたのでしょうか。
それはよくわかりません。



中学時代の話は ざっくり書きました。
次は高校生となるのですが、
更に わたしにとっては 過酷な日々となります。
自分では受け止められないことばかりです。






𝓉ℴ 𝒷ℯ 𝒸ℴ𝓃𝓉𝒾𝓃𝓊ℯ𝒹

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