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人口現実感情 #XR創作大賞

 目が覚めてかれこれ三時間ほどたつが、まだベッドから出られていない。26歳で独身のニートには特に予定もないので、起き上がる気にもなれない。パジャマ代わりのスウェットは、そういえば三日前から着っぱなしだ。
「そろそろ今日の打ち上げをはじめっかな」
 時計を見ると、すでに午後のいい時間になっている。寝ていることにも飽きたので、俺はベッドに寝転んだまま目の前にファイルマネージャーを呼び出す。
「今日はこれにしよ。夏だしな」
 <甲子園優勝校のエース_優勝した瞬間>と言う名前のファイルを選ぶと、ゆっくり上半身を起こす。いつもはだらしのない姿勢で過ごしているが、これをする時だけは姿勢を正すようにしている。瞑想みたいなもので、姿勢を正して集中したほうが効果が高いらしい、というのをSNSで見たからだ。
 ファイルを再生すると、emoというアプリが起動する。
 肩の力を抜いて、深呼吸。両手は膝の上に軽く乗せる。あごを少し引いて、視覚と聴覚に集中する。

 そして数十秒後、俺は深い歓喜の中にいた。
 先程まで膝の上に置いていた両手は、気がつけば頭上にある。ガッツポーズだ。
 あまりの達成感に、自然と流れる涙が止まらない。
「すげぇ……」
 スポーツで優勝系のコンテンツは今までもよく試していたが、やっぱり甲子園は格別だ。
 数分か数十分か、気持ちが落ち着いてきたあとも静かな高揚感が胸の中で踊っている。これまでの努力が最高の形で報われたという満足感と、輝かしい未来への期待感。
 とにかく、最高の気分だった。
「よっしゃ、じゃあ打ち上げ始めるかな」
 跳ねるようにベッドから立ち上がると、足早に冷蔵庫に向かう。
 ビールを取り出して流れるようにプルタブを上げる。
「それじゃあ、甲子園優勝を祝して。乾杯!!」
 缶の半分ほどを一気に飲み干す。
 本当は苦難をともにしたチームメイトと一緒に打ち上げしたいものだが、仕方ない。
 むしろ実際の高校生は甲子園で優勝してもビールが飲めないのだから、この俺の状況はかなり恵まれていると言っていい。
 やっぱり成功した感情を体験したあとで飲む酒は最高だ。何の苦労もなくこれが毎日飲めるなんて、いい時代になったものだな。
 ふと、視界の隅でメッセージ受信アイコンが点滅しているのに気がつく。
「あいつか……」
 差出人の名前をみて、いっきに甲子園優勝の夢から醒める。
「いやいや、まだ打ち上げははじまったばっかじゃね―か。楽しまないと」
 頭を振ると、二本目のビールを開ける。
「甲子園……高校生かぁ。俺はあのころ何考えてたっけな――」

「emo?なにそれ」
「バーチャルな感情の記録と転写するアプリ。まぁとにかく試してみろよ。すげーから」
 高校一年生の一学期がそろそろ終わろうかという夏の日。
 昼休みが始まるやいなや、俺は友人の田中に引きずられて屋上に来ていた。田中は技術オタクみたいなところがあるから、きっとまた何か新しいおもちゃを見つけたのだろう。
 屋上から見える空には大きな入道雲が浮かんでいる。グラスの隅に映っている天気情報によると、今日は30℃を超える真夏日らしい。
「分かった分かった。えーっと、とりあえずインストールしたぞ」
 アプリを起動すると何か説明書きが出てきたが、面倒なのでスキップする。すると「面白い」「楽しい」「ワクワク」「悲しい」「イライラ」……などといったボタンのリストが表示された。
「これを選べばいいのか?」
 ニヤニヤしながらうなずく田中をグラス越しに見ながら、俺は渋々と言った感じで適当に一つ選ぶ。すると、グラスからシステム音声が流れ出した。
『面白い、にキャリブレーションを開始します』
 アナウンスが終わるとすぐに視界が完全に覆われ、俺は不可解な空間に放り込まれた。
 視界はまるで世界に全ての色の絵の具をぶち撒けたようなカラフルで難解なものだった。それが不連続に、目まぐるしく変わっていく。思わず目を閉じたくなる衝動に駆られるが、なぜか瞼を動かすことができない
 聞こえてくる音は少なくとも音楽と呼べる代物ではなく、何かの言語でもない。ノイズと言ってしまってよいのか……それにしては何らかの情報を含んでいそうな気もする。とにかく決して心地よいものではなかった。
(なにが面白い、だよ。むしろ気持ち悪いじゃねーか)
 ぼんやりと空間に身を任せていると、それは突然終了した。
 刹那の暗転を経て、気がつけば視界はもとの夏空に戻っていた。
「わっはっっはっっははははっっは」
 そして、俺は大爆笑していた。

 数分間に渡って腹を抱えたまま笑い続けた俺は、少し気分が落ち着くと目元の涙を拭いながら田中に尋ねた。
「これどうなってるんだよ。俺はなんで笑ったんだ?」
「それはお前の脳波が、かつて大爆笑した誰かの脳波と一致するように操作されたんだ」
「どういうこと?」
「今のグラスには、脳波測定機能が標準搭載されてるのは知ってる?」
「それは、まぁ」
 数年前にAppleが発表したiGlass 12 ProMaxに非侵襲型の脳波計測装置が搭載されたのがきっかけで、現在はどのメーカーのグラスにも脳波測定機能がついている。
「このアプリは、ユーザーの脳波を特定の状態にする技術が入っているんだ」
「は? そんなことできるの?」
「さっきキャリブレーションって言ってただろ。ユーザーの脳波を計測しながら空間を見せて、脳波に起きた変化を計測して、そのデータをもとに見せる空間を変えて……っていうのを高速で繰り返すことで、体験者の脳波を特定の状態にする、らしい。まぁ俺もよくわかんねーけど。脳波っていうのは感情と深い関わりがあるから、脳波をいじられることによって感情もコントロールできると、そういうこと」
「つまり俺は、何か面白い気持ちの脳波にさせられたってこと?」
 にわかには信じがたいが、未だに楽しい気持ちが残っているのが何よりの証拠だ。
「そうだね。キャリブレーションの目標となる脳波は人工的に作り出せないらしくて、誰かが実際に体験した脳波を記録したものを使っているらしい。つまり、誰かが過去に体験した感情をそのまま体験できるってこと。ちなみにさっきお前が体験したやつは、どこかの誰かが芸人の漫才を見てるときの脳波らしいよ」
「まじか、芸人ってすげーんだな。人をこんな気持ちにさせられるのか」
「すげーのはemoだよ。これがあれば、いつだって好きな感情になれる」
 それは凄そうだけど、なんだかあまり実感がわかなかった。
「それに、例えば今俺らが素で感じている感情を記録しておいて、何年か後に体験する……みたいなことだってできるんだぜ」
 田中は少し興奮してきたのか、頻繁に額の汗を拭っている。
「分かった分かった。とにかくなんかすげーってのは分かった。でもさ、別に今のこのなんもない高校生活なんて記録しても意味ねーだろ」
「それはまぁ、違いね―な」
 そう言うと田中は肩を落として床に座り込んだ。
「そんなすごい体験なんてないもんなぁ」
「そうだなぁ……」
 俺は少し真剣に考える。誰のどんな感情を体験したいだろうか?
「俺が一番体験したいのはあれだな。エッチなやつだな」
「間違いねー」
 真っ青な空に田中の笑い声が吸い込まれていった。

「くっそおぉぉぉぉぉ」 
 夜の公園で、俺は心の中身を全部ぶち撒けるように叫んでいた。
「くやしいよなぁ……」
 隣では、ベンチに座った田中が小さくうなだれている。
 二十歳になった俺らは、M1(言うまでもなく日本一の漫才コンテストだ)優勝を夢見る芸人の卵だ。
「また二回戦敗退だよ。去年から進歩してねーじゃん」
「だよなぁ……また来年かぁ」
「とにかく飲もうぜ」
「おう」
 コンビニの袋から取り出した発泡酒を開けると、俺たちは静かに乾杯した。

「やっぱさぁ、俺人生で一番笑ったの、田中にemoをやらされたときなんだよ。あの後いろんな漫才見てきたけど、あれは超えらんなくて。だから俺らであれを超える漫才がしたいんだよ」
「お前酔うといっつもその話すんな。ほら、水」
 田中が呆れ顔で水のペットボトルを渡してくる。
 俺は水を一気に飲み干すと、勢いよく立ち上がる。
「とにかくなりてぇよなぁ、人気芸人に!」
「なりてぇなぁ。絶対なろうな!」
「なろう! あのemo芸人を越えてやろう!」
「emo……そうだ、俺いいこと思いついた。ちょっとお前emo起動してよ。そんで、今のこの気持ちを記録しておこうぜ」
「それいいな。ちょっと待って」
 俺はemoを記録モードにして、感情を記録した。
「ファイル名はそうだな……あ、いいこと思いついた」
「なになに?」
「俺をやる気にさせる感情だから、こんな名前にした」
 視界を共有すると、田中は飲んでいた発泡酒を吹き出した。

「おい、お前なんでネタ合わせ来なかったんだよ」
 一人暮らしの部屋に入ってくるなり、田中が詰め寄ってきた。
「もうすぐM1の予選だろ。練習しないと」
「おー、田中。ついにやったな、俺ら。M1優勝しちまったな」
「は? お前何言って……まさか!」
 田中は俺のグラスを奪うとファイルマネージャーを検索して、そいつを見つける。
「<M1優勝者_優勝した瞬間>……ってお前これ体験したのか?」
「そーだよ。マーケットで売ってたわ、1500円。やっすいの」
「っざけんな!」
 田中はグラスを外すと、ベッドに腰掛けていた俺の胸ぐらを掴む。
「なぁ田中。俺らが2回戦を突破できなくてもう何年になる? 5年目だよ。今年ダメだったら6年連続。小学生も卒業しちまう。俺もお前ももう20代前半が終わっちまった」
「だからって」
「お前も体験してみろよ。三分後にはもうM1優勝した気分になれてるぜ。すげー嬉しいし、達成感もあるし。やっぱすげーよ、M1は」
 emoによる満足感と、それが現実ではないという絶望感が入り混じり、言葉にならないような浮遊感を感じる。ただひとつ、取り返しのつかないことをしてしまったことだけは理解していた。
「あー、自分で本当に体験したかったなぁ、これ」
 俺は天井を見上げると、小さくつぶやいた。
 気がつけば田中は部屋からいなくなっていて、俺たちは漫才をやめた。

 目が覚めると、テーブルの上には昨日やった甲子園優勝打ち上げの名残が残っていた。
 ビールの缶が数本と、食べ残したつまみが散乱している。
 どうせ今日もなにかの打ち上げをするのだ、片付ける必要はない。
 この生活をはじめてしばらく経つが、コツは現実を持ち込まないこと。
 そして、バーチャルな感情に身を任せること。
「さて、今日は何の打ち上げにしよっかな」
 マーケットを覗いてみるが、めぼしい感情はほとんどすでに買っている。オリンピックの金メダルを取った瞬間というのが気になるが、少々値段が張る。
「節約するかなぁ。ニートだしな」
 自嘲気味に笑うと、マーケットを閉じてファイルマネージャを開く。今まで入手した数百個の感情が並んでいる。なかなか選べずにいると、視界の隅に表示されている通知マークが点滅しているのに気がついた。
「そういえばあいつからメッセージきてたんだっけ」
 通知からメッセージアプリを起動すると、田中から一件のメッセージが入っていた。
 コンビを解消してからしばらく連絡を取っていなかったのだが、最近になってまたぼちぼち連絡を取るようになっていた。
 内容はたわいないものだったが、それでもあいつから連絡が来ると漫才から逃げ出した自分を責められるんじゃないかと緊張する。
 しばしの間メッセージを開くべきか逡巡するが、後顧の憂いなく打ち上げに臨むため、思い切って開く。
『お前そういえばすごいエッチな感情っていうの持ってなかった? あれ試してみてよ』
 唐突に何を言っているんだ。意味がわからない。
 俺は基本的に気分が上がる系の感情ばかり買っているので、そういうのは持っていないはずだ。そういう性欲を刺激するような感情は、ひとりで使っても虚しいだけだというのを聞いたこともあるし。
「……まぁ、一応調べてみるか」
 ファイルマネージャーで「エッチ」と検索してみると、一件だけ引っかかった。<すごくエッチなやつ>という頭が悪そうなタイトルのファイルだ。
 見覚えが無かったが、無性に試してみたくなった。仮に虚しくなっても、あとで他の感情で上書きしてやればいい。
 ファイルを選択すると、いつもどおりemoが起動してシステム音声が流れた。
 意識を集中して、数秒間のキャリブレーションを終える。
 視界が晴れる。
 感情の転写には成功したはずだ。
「なんだ……これ」
 身体が熱い。心拍数が上がっている。
 しかし、決してそれはエッチな気分などではない。
 何かが心の奥底から湧き上がってくるような、身体の真ん中に大きな穴が空いているような。
 それは狂気的なまでの情熱と、耐え難いほどの屈辱。
 そして、未来への希望。
 何年も前に公園のベンチに置いてきてしまった、あの感情。
「そうだ……俺は、芸人になりたかったんだ」

「……そんでね、聞いてくださいよ、こいつその感情になんて名前つけたと思います?」
「えー、なんてつけたの」
「<すごくエッチなやつ>って」
「うっわー、アホやねぇ」
「おい田中、お前それテレビで言うの何回目や。もうやめてー」

(了)

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