友達に負わせすぎる幻想

小6の娘がこんなことを言っていた。
「本当の友達なんて、たった一人しかいないよ」

12歳にしてはずいぶん厭世的な物言いだなーと思ったけど、でも言わんとしているニュアンスは伝わってきた。
大人びてきて、何事もなあなあに済ませることができなくなり、友達100人できるかな?などと嘯く欺瞞について彼女なりに真っ当に考えた結果、これまでずっと仲良くしていた大多数の友人が「本当の友達」の枠からこぼれ落ちてしまったのだろう。

12歳の娘がいうところの「本当の友達」とは、「いろいろ腹を割って話ができる親友」くらいの意味だ。
クラスメートに仲の良い子はたくさんいる。
休み時間におしゃべりしたり、放課後一緒に遊んだり、好きなマンガを貸し借りしたりする間柄の仲良しだ。

それで充分じゃないかと思うのだけど、どうやらそのくらいの関係のことを「友達」、延いては「本当の友達」とはみなさないらしい。

表向きは仲良くふるまっている。
けれど、細かなところで不愉快に感じるところも多々ある。
だからといってその点をいちいち指摘していたら厄介ごとが増えてしまい、クラスやグループが揉める原因にもなる。
それでお互いに我慢しあっている間柄……、といったところか。

腹を割ってなんでも隠しごとなく話ができる相手のことだけを「本当の友達」と定義するのなら、そりゃあ「本当の友達はたった一人」しかいないとなってしまっても不思議ではない。
いやそれどころか、腹を割ってなんでも隠しごとなく話すことができる相手だなんて、大人にしたってそんな相手は滅多にいるものではないだろう。

娘のため息を聞いて、妻がうんうんとうなずいていた。
「大丈夫。それくらいでふつうだよ。私にも本当の友達は父ちゃん一人しかいないよ」
そういって笑いを誘う。

あれ……?
光栄にも唯一の「本当の友達」に選ばれた父ちゃんことボク自身は、妻に腹を割ってなんでも隠しごとなく話すことができるだろうか。
いや、そもそも「なんでも隠しごとなく話す」イコール「本当の友達」という前提がどうなのよ……?

別段なにか妻に隠しごとをしていて話すことができないというわけではないのだけど、でも妻のことは妻という別のステージの間柄を構築していると見なしており、けっして友達だとは思えないから、ボクには「本当の友達」は誰もいないことになる。

なんでも話せる相手でなければ本当の友達認定できないというのなら、本当の友達なんて要らないとも思っている。
(そこまでの厭世観を小6娘に押しつけようとは思わないけど)

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では「本当の友達」の定義はひとまず置いておいて、他人になんでも包み隠さず腹を割って話す間柄になることが、より好ましい人間関係のステージに上がることを意味するのか、ってところを詰めたい。

ありきたりの「友達」よりも「本当の友達」のほうが望ましい関係だ、という前提がある。
相手に気を使ったり遠慮したりしなければならなくて、言いたいことがあっても言えないような状態でもやもやする「友達」よりも、褒め言葉であれ苦言であれ、相手のためを思ってなんでもズバッとはっきり言えてしまう関係の方が「本当の友達」っぽい。

小学6年生ならそれくらいまででいいだろう。

でも自分におきかえて考えてみたとき、はたして「なんでも包み隠さず腹を割って話してくれる相手」を、好ましく思い、より深い間柄を構築することのできた状態の「本当の友達」だなんて感じるだろうか

もし誰かが「あなたにだけは本音を話せるのだ」と言って近づいてきて、「本当の友達」ヅラをして腹蔵なく思いをぶちまけて語り始めたとしたら、どうだろう。

悩みを打ち明けてくるかもしれない。
隠していた過去をバラすかもしれない。
公けには憚られるような不道徳なことを口走るかもしれない。

楽しいことや、優しい言葉や、褒め言葉ばかりではない。
容赦のない指摘や、説教や、批難も浴びせかけられる。
厳しいことも言われる。耳が痛いことも言われる。罵倒されるかもしれない。

さて、そんな(自分にとっては聞きたくもない)言葉をなんでもかんでも言ってくる相手のことを、自分は「友達」だなんて思えるだろうか。

なんでもかんでも言ってくる相手のことこそを友達だなんて認められるほど、自分は達観していない。

そんな悟りの境地にはとうてい達していない。

偽善めいている。

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「親しき中にも礼儀あり」とはよく言ったものである。

人は人と親しくなると、相手との距離を近づけてゆく。
距離を近づけることと、なんでもかんでも言ってくることとは、似ているようでまったく違う。

その点を勘違いしている人はたくさんいる。
敬語を話さずとも良いくらいにフランクな仲で親しくなってきたからといって、急に馴れ馴れしくなり、プライバシーに踏みこんだあけすけな物言いを始めてく人がいる。

それは単に「失礼」な本性が顕れただけのことだ。
友達だからといって赦されることでもなんでもない。

友達であることを免罪符にして、他の人にはけっして言わないような、無礼で、下品で、聞くに耐えないようなことを平気で囁いてくる相手は、礼を失した関係性しか築けていない友達以下の存在だと思ってもいい。

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ただし、ここでちょっと気に留めておきたい点がある。

聞きたくもないことを言ってくる相手は、誰であっても常に失礼で、無礼で、人との距離感を間違っちゃっている酷い存在なのだろうか……、ということ。

ほとんどの人は、どれほど親しい仲になっても一定の礼節を守り、相手に言ってはいけないこと・失礼にあたること・侮辱してしまう可能性のあること、は口にしないだけの常識を備えているものだ。

(ごく稀に、他人との距離感をとんでもなく間違っちゃってる人がいて、そういう困った人が「友達なんだから、思っていることをなんでも言っていい!」と彼我境界をあっさり踏みにじって、他人の尊厳を浸蝕してくる。
そういう人は論外。人間関係のスタート地点にも立っていない。
そんな一部の“変なヒト”は置いておこう)。

言ってはいけないことをわきまえた常識を備えながら、それでもなお、相手に対して厳しいことを言う人がいる。

ふつうの関係の他人にはほぼ言わないような、厳しいこと。
苦言。
窘め。
叱責。

いわゆる大人は、ふつうの人間関係(上司と部下や、師匠と弟子のような権力勾配の入りこまない間柄)において、なるべく相手を責めないよう・批難しないよう、無難であたりさわりのないコミュニケーションを心がけるものである。
なにか問題があったとしても、いちいちそれを指摘すると、相手がムッと不機嫌になるような展開が予想されてしまうので、苦笑いでなあなあに済ましてしまう(もしかしたら、そのあとに陰口を言ってるかもしれないけど)。

相手と軋轢を生じさせるようなコミュニケーションは、できるかぎり避けるのがふつうだろう。

しかし、それでもあえて言う、厳しいこと。苦言。窘め。叱責。

腹を割ってなんでも隠しごとなく話ができる相手のことを「本当の友達」と定義するのが、小学生の娘だとしたら、大人はそういう厄介な人間関係はできるだけ避ける。

でも、言わなければならない時は、それが相手にとって耳ざわりで、聞きたくない言葉で、厳しいことであっても臆せず言う。
隠さず言う。
厳しいことだからこそ、あえて言う。

そうするのが「本当の友達」だから。

自分がなにか過ちを犯している時、はだかの王様の状態であったとしたら、誰も何も言ってくれず、そのまま間違いをずっと持ち続けて生きることになるだろう。
死ぬまで矯められることはない。
それはとても孤独で、不幸だ。

友達に言いたくないことを言うのはとても辛い。
友達にそこまでの重責(辛さ・苦しみ・逡巡・悔悟)を負わせるのは、けっして手放しで良いこととはいえない。

できればわざわざ波風立てるようなことをお互いに口にせず、ゆるやかで、心地よい人間関係だけで生きていたい。

自分に耳ざわりの良いことだけ聞かせてくれる・甘言だけを投げてくれる・たとえ間違っていても常に味方でいてくれる。
そんな人間間柄だけで済むのなら、すごく楽ちんかもしれない。

でも……、そんな人生、意味あるかな?

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あえて厳しいことを言ってくれる友達に、感謝する。
自分のことを思っていてくれているから、間違っている時にはきちんと責めてくれる。
誰も何も言ってくれなくなったら、その時はもう宇宙空間にたったひとりで放り出されて呼吸もままならないような状態だろうと思う。

相手が自分のことを思ってくれているように、自分も相手のことを大事に思い続けたい。
それが友達という間柄だから。

その一方で、友達に負わせすぎてしまうことを、いつも深く反省している。

誰からも、何も言ってもらえないようになっても、恨み言を言わずにいられるだろうか。
自分のことを棚上げして、相手を責めるばかりの老害にはならないでおこうと思う。



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