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『素直さは最大の知性』を考える。

最近読み始めた本にあった一節が気になった。

『素直さは最大の知性』

アインシュタイン

素直は人は強いとか、素直さは武器になるとか
いろいろなことが言われる。
が、「知性」は初めてだった。
アインシュタインの言葉だそうだから、きっと有名なんだろうけれど。

そうか、素直さは知性なんだ。。。と呟きつつ
素直さが知性になるには、性格・性質としての素直さに
プラスアルファが必要なのでは?と思った。
そのことについて、少し考えてみた。

『素直』ってどんな意味?

Oxford Languageでは「素直」をこのように解説している。

考え・態度・動作がまっすぐなこと。
ひがんだ所がなく、人に逆らわないこと。心が純真さを失っていないこと。
技芸などに癖がないこと。

Oxford Language

こんな記事もある。

例えば京セラ創立者の稲森和夫氏は自身の哲学として「素直な心は、自分自身のいたらなさを認め、そこから努力するという謙虚な姿勢のこと」、「素直な心をもって人の意見をよく聞き、常に反省し、自分自身を見つめることができる人が本当に伸びる人」と述べています。

小学館Domani  https://domani.shogakukan.co.jp/485019

「素直な心は・・・謙虚な姿勢」であり、それがある人が伸びる。
それを知性にまで押し上げるために、私は次の2つの要素が必須ではないかと思う。つまり、

  • 信じ切る力

  • 自分の行動を変える力

信じ切る力があって、初めて素直になれる

信じ切る力とは、これが自分にとって正しいとか心の拠り所になると思ったことを、真っ直ぐに純真に信じて疑わない力。人は「なるほど、正しそうだ」と思うことがあっても、なかなか信じ切るところまでいけない。日常だって、自分を取り巻く環境は刻々と変化していて、ちょっと形勢が悪くなってくると「そうは言ってもね」などと言い訳したり自分を誤魔化したりしがちなものだ。私だけではないと思う。

また、人に逆らわないという行動は、必ずしも相手を信じ切っているから逆らわないということイコールではないと思う。「素直」の中に強固な芯がないと、なかなか信じ切れるものではない。この信じ切れる力がない場合、「素直」という言葉はフィットしないと思うのだが、いかがだろうか。

行動することで自分を変える力

知性とは・・・
1.  物事を知り、考え、判断する能力。人間の、知的作用を営む能力。「―にあふれる話」「―豊かな人物」
2. 比較・抽象・概念化・判断・推理などの機能によって、感覚的所与を認識にまでつくりあげる精神的能力。

Weblio辞書

素直さが知性になるために必要なもう一つのこと。それは自分の行動を変える力だと思う。たとえ心の中では純真無垢に信じ切っていることがあったとしても、その結果として自分自身に何も変化が起こらない場合、その人は素直だと言ええるだろうか?信じ切るのと同様に、そこには自分を変える行動力が必要で、信じ切っていることを、疑うことなく愚直に繰り返すことで自分を変化させていく。そんな行動があって、初めて素直が知性に昇華するのではないだろうか?

そしてもっとも大切なこと。

ラインホルド・ニーバーというアメリカの進学者をご存知だろうか。

神よ、変えることのできないものを静穏に受け入れる力を与えてください。
変えるべきものを変える勇気を、
そして、変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを与えてください。

ニーバーの祈り wikipediaより

つまり、何に対して素直になるのか、その判断が全ての基礎になるということ。

本や映像、それらの受売りでやたらと人にアドバイスしたがる人、などなど、とかくこの世はノイズが多い。その中にあって、なんでもかんでも素直に受け入れていたら、その人は破滅するだろう。だって情報は玉石混交だし、他の人にとって受け入れられることであっても、それが全ての人に当てはまるわけではないからだ。にっこりと微笑んで「ありがとう」とお礼を言って、即刻頭の中から放り出すことが大切な場合だってある。アドバイスをした人からすれば、自分は素直ではないということになるだろうが、そんなことは関係ない。

自分の価値観と照らし合わせて、これは自分にとって有用な情報かどうかを判断する能力を育てること。執拗なノイズは毅然とした態度でシャットアウトすることも大切だ。その上で、これは信じ切るに値すると判断したら、自分を変える行動を繰り返す。そこは愚直に。

自分がアドバイスする側の場合、相手が同じ愚痴を繰り返すだけで、何を言っても行動に変化を起こそうとしない人もいるが、それは素直ではないという好例。「この人は変化を起こしたいと思っているのではなく、単に愚痴を聞いて欲しいだけなんだ」と解釈して距離を置くことで、自分を守るのも大切だ。相手に、客観的に見るとどのように映っているのかを教えてあげようとしても、それは相手にとって聞きたい話ではないから、右の耳から左の耳へ素通りするだけだろう。それで自分が消耗してしまうとすれば、なんとももったいないではないか。相手に関わるなという意味ではない。ニーばーの祈りでいえば、変えられないものと変えるべきものを区別する賢さである。

これで初めて、人は素直さを知性と呼ぶようになる、と思うのだ。

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