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新作能「媽祖」鑑賞記

今年は年初に新作歌舞伎「プペル〜天明の護美人間」を鑑賞したが、今度は4月2日、京都で新作能「媽祖」を鑑賞した。

そもそもこの新作能は、現代の美意識に京都という土地が持つ歴史を掛け合わせて新しい文化を生み出そうというTHE KYOTOのプロジェクトとして生まれ、クラウドファンディングが行われた時に、友人から教えてもらった。

私の能の経歴といえば、観劇がほんの数回。銀座SIXの観世能楽堂ができたときに朝イチ能楽サロン第1期を受講。舞台のパフォーマンスよりも、どちらかといえば能装束に関心があって、真夏の能装束の虫干しを見学させてもらったことがあった。能に関してその程度の知識しか持ち合わせていないのだが、この新作能のために新幹線で京都へ行くことになった。実は、そこには大きな勘違いがあった。それはクラウドファンディングの紹介ページにあった写真によって起こったのだが、鑑賞記の前にまずは大勘違いのお話から。。。

クラファンの紹介ページには、小田原の江の浦測候所でのPV撮影の様子が紹介されていた。江の浦測候所は、写真、現代美術、建築など多彩な活躍をされている杉本博司さんの構想によるもので、一度訪ねて強烈な印象を受けたのだが、中でも相模湾を背景にした能舞台は圧巻で、いつかここで観劇したいと思っていた。なので、ここで撮影された写真を見て、新作能も江の浦測候所のあの能舞台で上演されると思い込んでしまった。4月はまだ屋外の観劇には寒いだろうが、あの舞台が見られるのなら!と思った。

能の舞台をよく観に行く友人を「江の浦測候所で上演される能」に行こうと誘い、クラファンに参加。プロジェクトは目標金額を達成し、3月になってチケットが郵送されてきた。嬉しくなってチケットの写真を友人にLINEした時に、友人が気づいた。「これ、京都で上演されるんだね。江の浦だと思ってた。」 ????? チケットをよくよく見て、クラファンのページを見て、私はようやく理解した。やっちまった。。。

観劇のみの日帰り京都強行軍も可能だったが、1泊することにして慌ててJR東海で1泊ホテル付きの往復新幹線チケットを購入。こうして京都で新作能を観劇する運びとなったのだった。


さて、こんなドタバタがあったのだが、結果は、この新作能「媽祖」は素晴らしく、初披露の舞台を鑑賞できて本当によかった。

媽祖とは、wikipediaによれば「航海・漁業の守護神として中国沿海部を中心に進行を集める道教の女神」。日本各地にも媽祖を祀る廟や神社があ理、疫病や災害、戦争などから人々を守る女神、人生のあらゆることの守り神とされているそうだ。(クラファンHPより)この媽祖を能という日本の伝統芸能で表現してみたら?と台湾人から持ちかけられた能楽師、片山九郎右衛門さんが発起人となって新作能制作プロジェクトが立ち上がり、クラウドファンディングも目標金額を達成。コロナによる舞台の制限も受けることなく4月2日の上演となった。

ストーリーは、海難を予知する巫女「黙娘」が好天により神通を得て航行の女神「媽祖」となり大伴家持を救い、さらに海の外にも慈悲を伝えるために旅立とうというもの。海の安全を祈る人々のメッセージが、様々な荒波を乗り越えて平和を願う、現代を生きる私たちの祈りと重なる。

私は、能は演者の技術と存在感は大前提、その上で、装束と舞台の余白のような空間が好きだ。以前通っていた着物の着付け学校の座学で聞いた能装束の話がきっかけだった。色を微妙にずらしながら重ねたり、そもそも全く違う色柄、ぶつかりそうな色を重ねながら全体の調和を取るセンスは世界が憧れた日本人の美意識の塊だという内容だった。多色使いのミッソーニは能装束をお手本にしているとか。媽祖がまとった装束は、色も重ねも現代的な軽快さが感じられたが、鬼神は鬼の面に朱・金・黒を使って織を重ねた重厚感のあるものだった。

能の舞台は極めてシンプル。その、何も置かれていない空間に何を語らせるかが演者の技術なのだろう。舞台の中央で語ったり謡ったりということは、あまりない(と思う)。その代わり、二人の演者が舞台の端と端で謳い合うことはある。その時は舞台の中央は何もない空間になる。演者の声色や大きさ、体格によっても舞台の見え方は変わってくる。自分の見せ方だけなく、自分がいる舞台全体の見え方を俯瞰することも演者の技術なのかもしれない。言葉や身体の動きを使った直接的な表現とは違う、空間が発するメッセージのやり取り。そうだとすれば、舞台を作り上げるうえで、会場にいる観客の役割も大きいということになる。難しい。。

今回、演者に能楽師のほか狂言師が参加していた。声の出し方、舞い方、摺り足などの作法や表現方法など、微妙な違いがあることに気づいた。能と狂言、独立した演目をそれぞれの役者が演じれば、私のような素人には気づかなかったかもしれない微妙な違いだと思うが、別々の舞台表現として作法や伝統が受け継がれてきたのだろう。それが、一つの演目で共演し、共存することで、『違い』がぶつかり混じりあって新しい空気を生み出す。独自の文化と作法を育んだ芸能だから、いろいろな葛藤もあったのではないかと察するが、伝統産業や芸能も現代にチューニングができなければ、いずれは朽ちる。伝統とsomething new の融合。そのエキサイティングな現場に立ち合える私たちは、きっとものすごくラッキーなのだ。

さて、最後に全体を通して感じたことを2つ。

ひとつは、今回とてもストーリーの展開が理解できて満足度が高かったということ。理由は明らかで、無料配布されたプログラムに詞章があり、謡を聴きながら文字を追えたことによる。音だけではわかりにくく、耳馴染みのない大和言葉も、文字が介在するとスッと体の中にストーリーが落ちていく。もちろん構成自体が分かりやすかったことが大きいのだか、理解度が高まれば人は満足感を覚え、関心が高まるものだ。現代語とは違う言葉を使うなら、求める人に売るだけでなく、ペラの紙でもいいので刷って入場時に渡すか、目につくところに積んで置き、誰でもアクセスできるようにしてはどうだろうか、と思う。外国語上演の演劇や歌劇には字幕がつき、歌舞伎にはイヤホンガイドがつく。なら、大和言葉の能に詩章があってしかるべきではないだろうか。

2つ目は、「媽祖」のメッセージと、まさに今世界で起こっていることへのメッセージのシンクロ。この演目の構想時には、感染症による行動制限による生きにくさや軍事的な対立により市民の生活や生命が脅かされていることは、まだ存在していなかったと思う。時間が激流にのみこまれ、今こそ安全と平和の大切さを世界中の人々が考える時。この演目は、このタイミングで上演されるべきものとしか思えない。

さて、素人の私が感じたことを感じたままに書いてみた。私自身、家庭の諸事情でなかなか観劇やライブの音楽鑑賞は難しいのだが、だからこそ与えられた機会は大切にしたいと思っている。今回、京都、岡崎の観世能楽堂で能を鑑賞し、桜が満開の平安神宮周辺を散策し、ロームシアターにある蔦屋書店で志村ふくみさんの本を買った時間は本当に貴重な自分へのご褒美となった。日常に戻って少しでも前に進むためにバッテリーがチャージされたというものだ。

1ヶ月先さえ全く見えないこのご時世。新しいものを生み出すエネルギーと、すべての人や生き物の安全と平和を願う祈り。この貴重な現場に立ち合えたことの幸運。この場を作ってくれた人たち、この場に呼んでくれたもの、一緒に京都に来てくれた友人、この場を共有した全ての人たちに感謝。

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