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迷日。

瞬く間に5月。

言い訳はするまい。
ここ一カ月、SNSに気持ちがなかなか入れなかった。
Xでもインスタでも、気合を入れないと投稿もできないし、見るだけでもパワーがいった。

で、ふと気づけば、今日は父の命日である。

あれからもう9年も経つんだ。
なんだか、3~4年くらい前だったような気がしてる。

父は生きたいように生きて、病気の関係で69歳で死んだ。
ある意味、ROCKな男である。
3回結婚して、3回離婚。
一人目の妻との間に娘ひとり、
二人目との間に息子ひとり、
三人目との間に息子ひとりに娘ふたり、
の二男三女の父親だった。
まあ、知らないだけで他にも子供がいた可能性も捨てきれないけれど。
私は一応、初婚の妻との子、長女である。

とにかく。

誰かを不幸にするつもりなんてなかったのだろうし、悪意はないにせよ、自分の幸せを優先するばかりにたくさんの人を傷つけたと思う。
“幸”せな“雄”と書いて、ユキオという。

2015年の2月某日、ユキオが危篤だと妹(次女)から連絡があった。
遠方に住む私は仕事の関係もあり、すぐには駆けつけられない。
どうしたもんかと思っていたら、見事に生還。

3月に帰省して見舞ったとき、父はナースセンターの横の個室に入院していた。
カーテンを開ければ、大きな窓ガラスの向こうで忙しそうにしている看護師さんたちが丸見えだ。
妙な場所だなと思ったが、私が病室に着くなり、
「肉が食べたいから知り合いの焼肉屋の親父に頼んで、ステーキを焼いて持ってこさせる」
と言いだしたり、同じく見舞いに訪れた知人のタクシー運転手さんに
「◯◯でいちご大福を買ってきてほしい」
と言いだしたりで、ああ、これはユキオには看護師さんの厳しい監視が必要だと申し訳なく思った。
それにしても、死にかけたばかりでその食欲って…。
ちなみに、彼は糖尿病患者であった。

ユキオは危篤になったとき、夢のようなものを見ていたらしい。
目の前に綺麗で物凄く立派な祭壇のようなものがあり、そこにとてつもなく美味しそうなチョコレートがあったらしい。
そのチョコレートをものすごく食べたいのだが、食べられそうで食べられなくて、それで生き返ったというようなことを話していた。
まったく、どこまで食い意地が張っているのか。

本当は父はしばらく入院しなければならない身だったのだが、結局、我を通して退院して自宅に戻った。

そして、GW中の5月3日に亡くなったのだ。
我が実家は自宅兼店舗で商売をしていたのだが、明け方出社した従業員が仕事用の椅子に座って息絶えているユキオを発見してくれたようだ。

GW中、私の夫は単身、関西旅行に出かけていた。
私は都内のマンションに残っていたので、
(どうしたもんかな、ひとりで帰省するしかないかな)
と思っていたが、念のため連絡すると、ひとまず朝一番の新幹線で東京に戻るという。

確かその日は、夫は旅の大きな目的でもある白鷲城(姫路城)を見に行く予定だった。
悪いなあと思いつつも、夫が付き添ってくれることにほっとしていた。
というのも、私は実家とは疎遠気味になっていたからである。
ひとりで帰るのは、結構な勇気がいったのだ。

それはそれとして、さらに問題があった。
時はGW真っ只中…。
北海道の東に位置する実家に帰省するための飛行機のチケットを取るのが厳しかった。
便が少ないから尚更だった。
しかも、繁盛期の価格でチケットを取らなければならない。
なんていうタイミングで死ぬんだよ、ユキオよ。

なんとか、葬式の日の朝一の飛行機が取れた。
お通夜は間に合わないが仕方あるまい。
一日猶予があるので、4日はGWで浮かれまくる浅草のしまむらに喪服を買いに出かけた。
ストッキングに黒いパンプスも買わないとか! 
あれ、バッグはどうしたらいいんだっけ。
くそっ、金がかかるぜ、ユキオめ。
GWを楽しむ人のたくさんの笑顔の中で、そんなことを思っていた。

正直、
その時の私は、父が死んだ実感がこれっぽっちも湧いていなかった。

5日、子供の日の早朝。
眠い顔の私たち夫婦はなんとか飛行機に乗った。
詳しい葬式の時間は聞いてはないが(聞けよ)、これしか便がなかったのだからしょうがない。
そして、6日には夫は仕事があるので日帰りである。
なんと慌ただしいことか。

地元の空港には、妹2(三女)が車で迎えに来てくれるとのこと。
喪服を来て飛行機に乗るのは縁起が悪いと思われるかもだし、周囲になんだか悪いので、空港に到着してからトイレでダッシュで着替えた。
昨日買ったばかりの喪服、スカートの値札を外し忘れており、仕方なく噛み切ろうとしたが歯が痛くなりあきらめた。
どうせ誰にもわかりゃしない。

妹や妹の家族と合流し、車中で挨拶しながら葬儀場に向かったが、着いたらすでに火葬場に移動するため親戚一同バスに乗り込み、発車するところであった。

完全なる遅刻である。

そのことをみんなで笑いながら、そのまま火葬場に向かうバスの後を追った。
火葬場に着いて、とりあえず喪主をしてくれてる妹1(次女)とも談笑。
ちなみに、ここで二番目の母に引き取られていた弟1と再会した。
私の記憶の中では1歳くらいのかわいらしい赤ん坊のイメージしかなかった弟1だったが、当然、皆平等に月日は流れており、いきなりかわいらしさとかけ離れたむさいオッサンとの再会となったわけだ。
困惑して目も合わせられなかった。
さらに、問題児である弟2(一応長男)は連絡もつかず、当然欠席である。

まったく、なんて家族だ。

まあ、そんなバタバタもあり、最後に父の亡骸との対面をしても、骨を拾っても、実感がひとつも湧いてこなかった。

悲しさも寂しさもどこかに忘れてきたのだろうか。
私って、こんなに冷たい人間だったかなと自分で自分が心配になるほどだ。
父の姉妹、叔母たちの涙を見ても、なんだか他人事みたいだった。

その日、夫が撮ってくれた父の遺影とお骨をそれぞれ持った私と妹1の写真は、ふたりして満面の笑みだった。

あれから9年経っても、実はまだそこまで実感はない。
あんなに大好きだった父の死、もちろん、寂しくて泣いてしまう日もあったけど。
それでも今でも、関東と北海道、疎遠になってるだけ。
ユキオは地元で好き勝手やってるんだろな、みたいなそんな感覚が残っている。

あとでいちご大福でも写真の前に供えるかな。

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