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がんばれファイターズ その1

最近仕事が忙しく、好調なファイターズにもハマっているため、noteを更新する時間がなかなか取れません。

私は北海道の人間です。そしてファイターズファンです。

そこでこれから4回に分けて私にとっては書きやすいファイターズの話題でいこうと思います。
note 復帰のリハビリも兼ねて。

地元北海道民から見た、北海道日本ハムファイターズの思い出や魅力、その第1回です。

1、ファイターズ北海道移転の巻

2004年にファイターズが北海道へ移転する前、北海道民の多くはジャイアンツファンでした。
テレビでは毎晩ジャイアンツ戦がナイター中継されます。
私はジャイアンツファンといえるほどではなかったけど、テレビで試合は見ていましたし、見ればジャイアンツを応援していました。

当時は、年に1シリーズのみ札幌の円山球場でジャイアンツ戦があり、チケットは入手困難だったと記憶しています。

そのような状況のなか、2003年に翌年から日本ハムファイターズが北海道に移転するというニュースが入りました。
完成間もない札幌ドームを本拠地にするとのこと。

当時、道民の率直な反応は、「へぇ~」という感じだった記憶です。
もちろん嬉しいニュースだけど、道民みんなが歓喜するほどではない。
ジャイアンツファンばかりの北海道で大丈夫なの?
そんな感じでした。

2004年移転後のファイターズは、北海道に根付こうと頑張っていました。
特に新庄選手のパフォーマンスが今でも語り継がれていますよね。
そこから2年間、ファイターズは少しずつ北海道に浸透していきましたが、北海道に完全に定着したとまではまだ言えない存在でした。

私も、移転から2年間のファイターズ戦を見た記憶はありません。
知っている選手は、新庄選手と小笠原選手、そしてヤクルトからFA移籍した稲葉選手のみ。
勝率5割程度、そこそこの強さのチームだなと、スポーツニュースを見て認識していた程度でした。

ファイターズにとってラッキーだったのは、当時ジャイアンツが堀内監督の時代だったことです。
ジャイアンツの低迷期であり、道民の心は次第にジャイアンツからも離れていっていました。

プロ野球再編問題やドラフト裏金問題など、ジャイアンツ的な手法が世間から受け入れられない風潮のころでもありました。

その頃の道民のもっぱらの関心は高校野球です。
2004年・2005年駒大苫小牧高校が、夏の甲子園大会連覇という偉業を成し遂げていました。
深紅の優勝旗が津軽海峡を越えて、初めて北海道の地に渡って来たのです。
道民の喜びは言うまでもありません。

駒大苫小牧の活躍で北海道の野球は熱かったけど、ジャイアンツに対する熱は冷え始めていた。
いま思えば、北海道民がファイターズを受け入れる下地は整っていたのだと思います。

そして2006年、ファイターズは日本一になりました。
その年の春に引退を表明した新庄選手のドラマチックな展開も相まって、道民のファイターズ人気は爆発します。
日本一を決めたときの新庄選手の涙と胴上げ、札幌ドームが揺れた稲葉ジャンプ・・
あの美しい日本シリーズで、ファイターズと道民は一体になったと思います。

ファイターズが北海道に移転し、駒大苫小牧が甲子園で初優勝した2004年から、夏にマー君とハンカチ王子が甲子園決勝で投げ合い、秋にファイターズが日本一になった2006年までの3年間、北海道には野球の神様が舞い降りていた、と私は今でも思っています。

それまで、北海道の人間にとって、甲子園優勝やプロ野球の日本シリーズは、テレビの向こうの世界の出来事でした。

まさか北海道代表校が甲子園で優勝したり(しかも3年間で優勝・優勝・準優勝)、北海道のプロ野球チームが札幌で開催される日本シリーズで優勝を決めたり、そんなことが起こるとは、子供のころから想像すらしていませんでした。

駒大初優勝のときと、ファイターズ日本一が決まったとき、私はあまりの嬉しさに涙がポロポロ流れたことを、いまでもよく覚えています。

ファイターズの優勝パレードは2006年11月、札幌の中心街で開催されました。
札幌市民みんながパレードを見に来たのか、と思われるほど札幌の街は人で溢れかえりました。

そして、その日を最後に新庄選手と小笠原選手はファイターズを去って行きました。

来年も強いファイターズは見られるのか・・
寂しさと不安がファンの胸に去来します。

しかし、みんな知っていました。
ファイターズにはまだ、若くとんでもない逸材がいることを・・・

(ちょっとドキュメンタリー風に終わって)
次回「ダルビッシュ有と大谷翔平の巻」につづく

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