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エンターキーを押す前に。

わたしはライターという仕事柄、文章を書き発信する機会が多い。投稿数も多いので、簡単にぽんぽん思いついているのだろう、と思う方もいるかもしれない。「よくそんなふうに文章を書くことができますね」と言われることも多い。

わたしの場合、Xの投稿やInstagramのストーリーなどは、投稿するまでに数十分、ときには数時間費やして悩むこともある。そして何度も書いては消してを繰り返して作り込んだ挙句、投稿しないことも実は多い。

これはnoteも同じで、未投稿の下書きを数えたら80投稿ほどあった。衝動的に書きやすいXの下書きは、もう無数にある。

そんなふうに伝えたいことが日頃から溢れ出てしまうわたしは、投稿する前に一度立ち止まって「画面の向こう側の人」に思いを馳せることを習慣にしている。

わたしにとって、思うがままに書くことは簡単だ。頭から心から溢れ出るまま、親指がスマホの画面上ですいすい踊る。

しかし書くことよりも「本当に誰かの目に触れてもいいものなのか」自分自身で客観的な目をもって精査することが、文章を扱う中で最も難しい。

これを読んで傷つく人がいるとしたら、どのような人だろう。
これを発信して迷惑を被る人はいないだろうか。
わたしは無自覚に、ナイフを振り回していないだろうか。

そんなふうに思いを馳せても、結局は自分の知るものの範囲でしか想像することができないので、思いがけない反応を受け取るときもある。

「書いていない」部分を独自に作り出して突然噛みついてくる人だって、インターネット上にはたくさんいる。

そうした想定の範囲外のこともしょっちゅう起きるので「配慮してもしきれない」のが実情ではあるのだけど、わたしは『投稿』ボタンを押して世に放流する前に、画面の向こう側の誰かついて想像する時間を持つようにしている。

最近のXはとくに、相手をあえて傷つけるような、侮辱する言葉が簡単に使われているし、思ったことを脊髄反射ですぐに投稿してしまう人も多い。そうした行為を、日常生活ではやり場のないストレスの捌け口としている人も多いのだろう。

だけどもう「名無しさん」でいられる時代も、インターネットとリアルを切り離して生きられる時代も、とっくに終わっている。心の中で思うことは自由だが、それをなんでも文字にして無差別に投げつけていいわけではない。

とくに言葉は「文字」になるとパワーを増す。同じ内容を言われるにしても、口頭で直接言われるよりも文字で受け取るほうが、ずっと「くる」ことも多い。

どうかこれを読んでいるあなたも、SNSの投稿やメッセージを送る前に一度立ち止まって、画面の向こう側にいる「温度を持った人間」のことを想像してみてほしい。

そのエンターキーを押す前に。


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